yokoken002's note

Reserch review on the history of technology and science

レスリー、1993年、2章。

第二章 エレクトロニクス分野の「尖塔」建設

 

☜「評判の良い地方大学」から「エレクトロニクスの分野で世界的に卓越した研究センターの一つ」に作り上げた。

⇔軍事優先によって急速な拡大が可能となった。

(DODとの契約は、1946年:約13万ドル(※政府関係の契約額でDODに限らない)、56年:450万、66年:1300万ドル。

  • Steeple of excellence(エクセレンスの尖塔)=ある研究分野(この場合、電子工学)における世界的権威が集まることで大学の地位をあげようとする政策。

スタンフォードにおける電子工学とは、軍用のエレクトロニクスを意味していた。

:その拠点=ターマンが築いたSEL(スタンフォード電子工学研究所)

→数十の企業も生み出した。

 

2-1 通信技術という選択肢

→産業利用を指向した通信工学のプログラムを開始。彼の教科書『無線工学』(1932年)も産業利用への指向を反映しており、現実の問題を中心に据え、現場の技術者から定評があった。

→6年間で33の大学院学位論文を指導。

  • 優秀な学生を惹きつけるのは、名声ではなくお金であるとの判断。

∵MITは、大学院生に奨学金として年額9万1000ドルを支給している。その結果、院生の3/4は他大学から来ている。

スタンフォード大学院は、ほとんどが内部進学者(44/60)。

☜このための資金を地元のエレクトロニクス企業に求めた。

 

2-2 無線工学研究所

  • NDRC委員長のブッシュは、ターマンを無線工学研究所(RRL)の所長に任命。

RRL:ラドラボのスピンオフ研究所で、MIT所属。

∵ターマンは、無線工学協会(IRE)の会長に40歳で就任しており、豊富な人脈を持つ。

→1942年2月に東へ。

  • 優秀な人材はすでにラドラボに取られていたが、年末までに250人を集める。1/3が物理、残りが電気工学。(このうち、ノーベル賞受賞者も2人出る。)
  • RRLの研究課題:レーダーの妨害、対抗装置[1]。3億ドル。

☜ターマン自身は、研究所と外部の契約企業の生産技術との調整を図り、RRLで発明したものを製造してもらう仕事に従事。

→軍産学の提携関係は、戦後においても継続することを確信。

 

2-3 西海岸を制する

:財政支援先を地元のエレクトロニクス産業に求めるのではなく、当初は軍からの研究委託の中から選んだものに尽力することで、大学が産業を支援すべきだと考えた。

  • 1947年:スパンゲンバーグのクライストロン、フィールドの進行波管、ヴィラードの電離層研究、ペティットのスペクトル分析研究とを、JSEPの「タスク7」として統合し、知的・財政的基盤とした。

→電気工学科は、エレクトロニクス研究所(ERL)を設立した。1949年までに年間50万2000ドルの契約額を獲得。

  • 1950年までにスタンフォードは、エレクトロニクス分野で「西のMIT」の言えるまでになっていた。

 

2-4 朝鮮戦争による動員

  • 朝鮮戦争応用研究の契約を増やす観点で、スタンフォードとの契約を見直した。「一ヶ月でも遅れると、今の地位を取り戻せないかもしれない」

→ほとんど議論がないままで、初年度は30万ドル、次年度は45万ドルの委託研究を承認。

→一夜にしてスタンフォードの電子工学プログラムはその規模が2倍になった。

  • ターマンは、ERL=基礎で公開研究/ AEL (応用エレクトロニクス研究所)を応用で機密研究を行う場所として、管理上分けた。

⇔ただし、この区別は曖昧であることを認めて、1955年にSEL(スタンフォード電子工学研究所)として統合した。

 

2-5 日常業務として

  • 朝鮮戦争のための動員は、地元のエレクトロニクス産業にも、契約上有利な立場を与えた。

(ex ヴァリアン・アソシエイツは20万ドル(1949)→150万ドル(1951)に売上を伸ばす。ワトキンス・ジョンソン社=最も財政的に成功した会社。)

  • この時点では、東海岸の企業の基準からすれば西は取るに足りないもの。

∵GE、RCAの1956年の売上はともに7億2500万ドル。

⇔ヴァリアン・アソシエイツは1956年で2500万ドル。

東海岸の企業は、西における軍事エレクトロニクス市場の急成長に便乗しようとした。∵

  • 軍市場は安定している。
  • 軍との研究開発契約は、新分野への安上がりな参入手段である。(それでいてスピンオフの可能性もある。)
  • 陸軍通信隊のQRC研究→エレクトロニクス防衛研究所(EDL)

スタンフォードの関係者を活用。大学の「特別協同教育プログラム」の最初の参加機関となる。60年代初頭までにEDLだけで92名がこのプログラムに送り込まれた。

→レーダー用の高出力進行波管、電子対抗手段のための低雑音進行波管の研究。

(他にもアドミラルやシルバニアなどの企業も研究所を設置)

1960年までに米国の年間数百万ドルの進行波管ビジネスの1/3がスタンフォード大学の周辺に立地した

→ターマンは、スタンフォード・インダストリアル・パーク構想を支援した。

=大学の敷地にハイテク企業の団地を作って産学連携を促進するもの。

→会社と大学の境界線をあいまいにした。

 

2-6 小型化革命

→SELを最新の状態に保つため、ピティットらをイリノイ大学に送る。また、トランジスタの発明者のショックレーが自身の会社を作ることに感心を持っていると聞き、スタンフォードの近くに移転するように売り込む。

→1955年にスタンフォード工業団地にショックレイ・セミコンダクター社を設立。

  • スタンフォードにおける固体エレクトロニクスの場合も、軍事研究の契約で一流の学術プログラムを形成し、これに関連分野の教員を招聘し、産業界との連携によって企業の関心・支援を集めるという道をたどり、トップに立っていく。

SELの固体エレクトロニクスのプログラムは、変化する軍事上の優先度を反映していた。=当初は「スマート兵器」の小型で信頼性の高いエレクトロニクスの開発を目的とするものだった。

実際、SELの予算は、1960年にJSEPからは33万ドル、陸海軍軍の個別研究からは約230万ドルを受け取っている。

☜ターマン:「このゲームは勝つのが容易だった」と振り返る。

⇔彼らの成功が、軍の機関がルールを決め、ゲームがどのように行われるかを決める程度をめぐる、厄介で終わりのない疑問を提起することになる。

 

[1] これはドイツ向けなのだろうか?「すべての連合国」の作戦で使われたとあるので、日本のレーダーに対するジャミングも行われていたのだろうか?

 

 

 

レスリー、1993年、1章。

第1章 軍のまわりに群がる大学

  • 戦後のMITのビッグ・サイエンスの研究テーマの決定において決定的な影響力を持っていたのは、軍だった。

:WW2の終わりまでに、MITと政府との間で結ばれた国防関係の研究は75件(1億1700万ドル)で、2位のカルテク(8300万円)を大きく上回っていた。→MITの優位は冷戦期を通じて維持される。

  • 資金が使われた場所で特に重要なのは、エレクトロニクス研究所(RLE)

組織形態・資金供給のあり方・研究テーマの選択において、軍産学連携の先例となり、戦後における知識の政治経済(political economy of knowledge)を形成する上で大きな影響を及ぼした。

(60s初頭までに博士300人、修士600人、学部生600人が学び、MITの学長=ストラットンなども輩出。)

 

  • ラウンド・ヒルにあるMITの研究所=RLEの母体=慈善基金依存から軍と産業界との連携にシフトしていく場所。
  • ストラットンがMITに入学した1920年

→ジャクソンが電気工学科の学科長で、産学連携の推進者。

  • ストラットンは弱電に進み、真空管の設計で修士号をとったボウルズの下で卒論・修論を書く。(博論はデバイとともにチューリッヒに留学し、そこで書いた。)
  • ボウルズ:AT &Tと電力輸送の分野で連携の教育プログラムを導入した人物でもあり、その後、通信工学の分野でのベル研究所との連携を進める。

→資産家のグリーンの出資もあり、商業放送技術の研究拠点をラウンドヒルに創設する。

→MITはマイクロ波の理論・実験の中心地としての地位を確立し、1933年に電気工学のカリキュラムを電気工学・電磁気学を中心とするものに変えた

⇔恐慌の影響もあり、(グリーンの死もあり)1937年にラウンド・ヒルは閉鎖。

  • しかし、時局悪化につれて、マイクロ波の、航空機の探知・誘導への応用が重要視されるようになる。

スペリー・ジャイロスコープ=MITと1937年に航空機着陸システムで契約を結び、将来の巨大防衛契約における優位性を獲得する。

(陸軍の契約も得る。)

  • 再び息づいたMITのマイクロ波プログラムは、ITTと資産家のルーミスの注目もひき、マイクロ波の伝搬・検知に関する研究の契約を結ぶ。

 

  • 放射研究所
  • 1940年科学動員の組織であるNDRCが発足。

☜軍は保守的すぎるとの信念を持っていたブッシュは、民間企業と大学を通じて軍事研究の契約を行う民間人からなる機関を提案し、NDRCが誕生。彼が委員長になる。

  • NDRCの緊急課題はマイクロ波レーダーの研究であり、コンプトンはベル研やGEのメンバーも加わった「マイクロ波員会」を設置し、同年10月には最新型のマイクロ波レーダーを開発するための大きな研究所を設立することに合意。

→NDRCの契約のもとに、50万ドルの予算がMITにわたり、放射研究所(ラドラボ)が設立された。

:4000人、年間予算1300万ドル、企業契約の総額15億ドルと、マンハッタン計画と競合関係にあった。(Cf 「戦争を勝利させたのはレーダーで、原爆はそれを終わらせたに過ぎない。」)

  • ラドラボはラウンドヒルの伝統の上に成り立っていたが、同研究所の日常的な運営は外部の物理学者に任されていた。MITの学科のメンバーでさえ、ラドラボには小さな影響力しかもたなかった。
  • 1944年の夏には、ストラットン、コンプトン(MIT学長)、スレーター(学科長)らは、ラドラボによってMITにもたらされた機会を利用する方法について議論し始めた。

マイクロ波エレクトロニクスの研究プログラムの構想。しかし当初、研究所の資金がどこから来るかは定かではなかった。

  • ⇔政治の風向きが変わり始める。海軍・空軍はすでに第三次世界大戦に備える真面目なプランを作り始めた。

→軍は、「機能的パートナーシップ」の継続を企図した。

←WW2は、軍隊だけでは勝つことはできなかったのであって、科学者・企業家・技術家が兵器に貢献した。

  • ONR(海軍研究事務所)が科学研究の最大のパトロンとなり、戦後の軍と大学の関係の先例を作った。

 

  • エレクトロニクス研究所
  • 軍は、類ない戦時中の資源が戦後の動員解除の中で失われてしまうことを恐れ、大学とのパートナーシップを延長・拡大するための方策を練った。

ラドラボの基礎部門を「エレクトロニクス研究所(RLE)」として再編すること。

→1946年3月、軍はRLEなどへの金銭的援助を獲得するための「電子技術共同プログラム」(JSEP)を設立した。そして、RLEは、JSEPからの予算60万ドル[1]によって、ラボラドで雇用されていた大学院生、MIT電気工学科の教授17人、教員27人によって業務が開始された。

  • ストラットンらは、JSEPの契約が認める「自由度」を誇りにしていた。=「個々の学生が研究のトレーニング」という観点で最大の利益が得られること。また、当初は研究所の活動の大部分は機密化されなかった。

⇔研究テーマの多くは軍の関心と直結していて(ex マイクロ波管・導波管)、軍の技術諮問委員会によって監視されていた。

  • →メテオ・プロジェクト:海軍の空対空ミサイルの空百万ドルの契約を通じて、間のなくRLEは秘密の軍事研究に嵌め込まれた。
  • 国防総省が1950sを通じてRLEの予算の97%を占めていたが、産業界の寄与のページも無視しなかった。

→RLEは、研究と卒業生を通じて地元の電子関連の産業の成長に寄与した。研究所は最初の20年間に14の企業を起こした。(メットコム、アドコムなど)

=「技術上の専門知識とペンタゴンとの良い付き合いが重きをなすような領域」

  • RLEの防衛関連への指向性→MITなど学のカリキュラムに影響を与えた。

:(1)教科書:教授らはMITで学位を取って、自分たちが教えることを教科書に書く。→初期のRLEの研究プログラムの軍事的な性格を反映している[2]

(2)RLEのメンバーが、MITの電子工学のカリキュラムの改訂を行う。エレクトロニクス、通信、電磁気・回路理論に強く傾くものになった[3]

新カリキュラムが選択した電気工学の概念、テーマは、著者たちが当時研究していた軍事関係の諸問題によってかなり影響を受けていた

=古い電気機械実験室を廃棄し、戦後の軍事システムの中心を占める応用エレクトロニクスの差し迫った要求によって体系化されたカリキュラム。

  • 朝鮮戦争が勃発(1950)すると、RLEは、陸海空軍の大規模な機密研究を引き受けた(電子空防術、レーダー・ソナー、戦闘通信システム)。

 

  • ジョージ・ヴァレーが委員長を務めるSAB(空軍科学特別諮問委員会)によって、空軍はMITに対し対空防衛研究のための新しい研究所を設立することを勧告。

1949年にソ連が最初の核実験を行ったことで、アメリカは空からの攻撃に脆弱であると懸念するようになった。

→SABは1949年12月にADSEC (防空システム技術諮問委員会)を設置し、委員長にヴァレーが就任。

地上レーダーと対航空機兵器とをコンピュータで結ぶ、総合的な防空ネットワークというアイデアが生まれた。

  • さらに朝鮮戦争はこの委員会の仕事に緊急性を与えた。

⇔しかし、当初MITの首脳部は、学内にラドラボのような大規模の研究所を作ることに反対していた。

∵陸海軍の影響力がMITを侵食しようとしている。

→しかし、結局、「戦争の脅威は現実かつ深刻であり、研究所は国に対して重要な責任を負っている」と結論づけられた。

  • リンカーン研究所(1951年)が設置:22人(うち13人がMITからの移籍)。

→54年には空軍基地の隣接エリアに移転。

  • 同所の最初の大規模プロジェクト=SAGEシステム

:デジタルコンピュータに繋がれたレーダーと対空兵器の全国的ネットワーク。政府資金の80億ドルが投じられた。

  • SAGEの頭脳=Whilwind(つむじ風)と呼ばれるコンピュータ

∵数千もの航空機の追跡を死角のないレーダーで行うためには精巧なコンピュータが必要。

フォレスターの研究室の「つむじ風」計画が統合していく。

:この研究室では戦時中から海軍向けのコンピュータ開発に取り組んでおり、46年以降はデジタルコンピュータの研究に力を入れていた。

→1951年にリンカーン研究所の第六部門に統合された、

  • さらにリンカーンのこれらの技術は、IBMなどを通じて、産業界(下請け企業)にも拡散していった。
  • 最初の10年間で、リンカーン研究所において55人がMITの学位を取り、うち13人が博士だった。

⇔事実上、彼らのすべての研究が略語も含め、秘密とされた[4]

  • 地元の電子産業にも影響を与えた。Ex: DEC(デジタル・エクイップメント・)

→同社は明確に民生指向だったが、「防衛関連研究の直接の工業界への移転の例」

:1986年までにリンカーンからのスピンオフ企業の年商は86億ドル、10万人以上を雇用している。

  • MITの学科長のブラウンは、1958年に学科の視察委員会向けに「科学に向かって整列した大学(A university Polarized Around Science)」と名付けた図式で説明。

⇔RLEも、外部企業との連携についても省略されている。

→実際には、A University Polarized Around the Militaryと言うべきである。

  • 戦後50-60sにおけるMITの成功

技術教育のパターンが、組織的・概念的に、安全保障国家の要求によって設定されることのコストについての懸念が高まった。

 

[1] おおもとは国防総省から出ているのだろうか?それとも軍?

[2] これは極めて需要な議論であるが、軍事的性格が反映されるとは何を意味しているのだろうか?実際のところ、ここでは有名な教科書を列挙しているのみで、教科書に反映されている「軍事的な性格」の中身に立ち入って検討しているわけではない。

[3] これらは「弱電」部門のごく一般的な内容だと思われるが、軍の意向が反映されたと言えるのだろうか?

[4] この場合、博士論文も非公開扱いになるのだろうか?そして、それは認められることなのだろうか?非公開になるなら、学の発展にかなりの「悪影響」が及んだと考えられそうだが、可能であればもう少し踏み込んで言及してほしかった。

 

 

 

レスリー、1993年、序章。

スチュアート・レスリー『米国の科学と軍産学複合体』

 

序章

  • 冷戦は、米国の科学を定義し直した。

←1950sを通じて、国防総省(DOD)は、連邦政府の研究開発予算の8割を占めていた。(冷戦期全体を通じて、電子・航空技術では、産業界全体の研究開発費の3/4近くがDODからの出資であった。)

=冷戦下での政治経済においては、科学は純粋なアカデミックなものであるというよりは、軍によって下書きされた国家の工業政策に適合する青写真に沿ったものでなければならなかった。

  • ウィリアム・フルブライト:「軍産学複合体 (military-industrial-academic complex)」

→大学:

  • 知識を創造・再現する(=基礎研究を提供する)場
  • 次世代の科学者・技術者を訓練する(=防衛産業の人材を供給する)場

→学セクターは、軍産複合体にとっての不可欠なパートナー。

  • 軍産学複合体は、戦後の科学の新しい形態(=安全保障国家の状況の依存する性格の科学)を作り出した。

→研究・製品は、先端の軍事技術に偏り、民間経済に資することは少なくなる。

  • アイゼンアワー大統領の離任演説→「軍産複合体」:政治的・知的自由にとっての脅威であると警告した。

 

  • WW1ランドルフ・ボーンは、WW1は、アメリカの政治経済・科学にとって見えない分岐点であったと主張。

:戦争産業委員会(WIB)のもとで平時における大規模な工業資源に関する計画立案がなされ、のちの軍産複合体となるきっかけが作られた。→軍需生産委員会へとつながる。

:さらに、全米研究評議会(NRC)のもとで、ミリカンをはじめとする一流の科学者が「戦争は研究を意味する」との信念のもと、動員された。

⇔しかし、NRCは科学者を動員したが、科学そのものは(少なくとも大学における科学は)動員しなかった。動員された科学者は自身の組織の代表として参加していたのではなかった。アメリカの大学は軍事科学それ自体の推進にはほとんど関与していなかった。

→軍産学の連携もWW1後に解消された。

  • 国家の支援を失った(あるいは政治的地位を失った)大学の研究者は、代わりに地域的なビジネス業界や慈善基金に協力を求めるようになる。(ex ミリカンのカルテク)

戦間期においては軍は(航空学を除いて)大学における科学の政治経済にはほとんど関与しておらず、この間の大学の研究資金はロックフェラーをはじめとする民間ファンドによって、もしくは企業内研究所によって賄われていた。

☜WW1前にいかなる経験によって、軍産学の相互関係を一変させるようなスケールで、学セクターを全面的に再配置するということはなかった。

 

  • WW2:WW2は動員の規模、資金が使われる場所・方法において、学セクターを変容させるpoint of no returnとなった。

ヴァネバー・ブッシュ:戦時中の科学製作の立案者で、大学の研究の支持者。

→1940年にNDRC(民間の力を使って官僚主義を迂回して公立・私立の研究教育機関契約させることを目的とする委員会)の委員長になるよう大統領に説得。

→さらに強力な権限を持ったOSRD(科学研究開発局)の責任者に就任。

OSRD:戦時中に4億5000万ドルを兵器開発に使い、戦時の技術発展に重要な役割を果たした。

  • 軍は、戦時中の共同研究のやりかたを継続することを希望した。(ex: ONR)

→1950年までに、国防目的の研究開発支出は戦時中のレベルまで戻った。

 

  • 朝鮮戦争アメリカの科学動員を完成させ、史上初めて大学は軍産学複合体の全面的なパートナーとなったDODの研究開発費は2倍に。大学の管理運営のもとに新設の研究所ができる。(ex リンカーン研究所=MIT、応用エレクトロニクス研究所=スタンフォード)
  • 軍の支配力の増加は、大学・産業の科学研究に対して研究内容の優先順位に半永久的な決定権を及ぼすことになり、将来のアメリカの科学の方向性を決めることになった。

 

  • 軍事研究はアメリカの高等教育に及ぼした長期的なコストは、
  • 金銭
  • センス(良識)〔知識や認識のあり方〕 

の2つの面から測られなければならない。

イアン・ハッキング:「兵器だけが資金を受け取るのではなく、思考と技術の世界もそれを受け取る」

我々の関心を科学的知識の特定の〔安全保障に資する科学に限定された〕形態に限定することによって、知の世界にも多くの危険をもたらす

=冷戦における軍の要求に基づく技術が、米国の戦後の科学者・技術者にとっての重要課題を定義した。(ex : レーダー、弾道ミサイルマイクロ波エレクトロニクスなど)

  • 新しい知と技術の世界を理解するためには、軍の関心・意図が、大学の専門分野の構造、研究の優先順位、学部・大学院の教育、教科書にどのように定着したかを分析する必要がある。
  • ドナルド・マッケンジー:核ミサイルの発展を例に、「”テクニカルな問題“は決して明確ではなく、政治から切り離された単純な事実の世界ではない」ことを議論。→政治がハードウェアにいかに組み込まれるか?
  • 構築物(artifact)の背後にある知識も、同様に支配的な政治文化を全面的に体現している。社会の要請が、いかにして「学問的言説の内部構造にまで入り込むか?」また、そうした知識は、社会構造が消えた後も持続することになる。

 

∵両大学は、DODの関連団体から財政的にも、知的にも多くの利益を得た。

(Ex:MITは戦後に国内最大の防衛関連の研究契約機関となり、スタンフォード大は1967年までに契約リストの3位になり、電子工学・航空学では国内トップ〔おそらく研究レベルでトップという意味〕。)

=戦後の科学・工学の最も戦略的な分野(電子工学、航空工学など)において、両大学が先導していた。

 

 

 

畑野、2005年、むすび。

 

むすび

 

  • 英米/日の比較〕
  • 1930s前半の海軍の反ワシントン体制の志向と産業力強化・大学との関係の緊密化=総動員体制構築の端緒。

太平洋戦争において軍産学複合体の膨張が極限に達した

  • 工業・研究動員に際して重要な役割を担ったのは、平賀をはじめとする海軍造船官。⇔陸軍・革新官僚

→軍産学複合体を基盤とした日本海軍の政治的行動が、産業・研究動員体制の確立を促進することで、戦時体制の極限化をもたらした。

⇔海軍の権限維持の固執によって、国内の一元的な戦時動員体制の実現は一貫して不可能となった。

  • 英米:一元的な戦時体制の構築

☜海軍の政治的発言力の強化、政治介入を伴うものではなかった。

文民政治家が終始、戦時体制運営の主導権を保持していた。

Cf: OSRDも、軍の意向が容易に貫徹されることがないように、大統領に直属する形をとっていた。

英米においても軍産複合体の端緒は、戦前からすでに存在していたが、両者の結合によって生じる不正利益の発生などに対しては、戦時中も制約が課されていた。(ex ; 艦艇、航空機、造船、軍需関連工業が獲得する利潤を調査・制限する仕組み≒ヴィンソン・トラメル法、トルーマン委員会)

=WW2の英米においては、国内に存在した軍産学複合体に対する外部からの統制によって、シビリアン・コントロールが効いていた。

  • 軍が軍産学複合体を基盤として政治的な影響力を強める可能性が存在するような場合にあっては、軍の産業界・大学への接近に対する制限・監視の制度を確立することが不可欠。研究者や技術者による軍民複合体の形成や発達への警戒が重要。

 

  • 戦後との連続性〕
  • 戦後日本の造船・海軍政策は、艦政本部の造船官が主体となって船型を定め、産業設備営団の融資によって船舶を計画的に量産するという戦時中の形態が、政策主体を海軍から運輸省へ変化する形でそのまま維持された。(制度的な連続性)
  • 加えて、軍民の技術者たちも、戦後の計画造船を出発点とする政策の展開を技術面から支え、日本の戦後における造船業の復興・飛躍的成長を可能たらしめた。(人的な連続性)
  • 海軍が実施した産業政策の目的=全ての軍需関連工業(重化学工業)の発達は、軍産学複合体の中核としての海軍が消滅した戦後において実現した。

 

議論:

・日/英米での軍産学複合体の違いについての議論が含まれていた。簡単に言えば、戦前日本の軍産学複合体は、海軍の政治的影響力の膨張に歯止めをかける文民統制が効いていない点に特徴がある。そのために、海軍の軍産学複合体は、戦時中に極限に達し、結果としてその権限維持への固執は他のセクターとの権限争いを招き、一元的な統制システムを構築できなかったという議論である。

                                                

   
   

 

・戦前日本の軍産学複合体と、戦後米国のそれは、ともに軍(・産)の政治力の肥大化・暴走を伴う点で共通しており、その意味では、もし「軍産学複合体」が日本にもあったという著者の主張には概ね首肯できる点もある。

・しかし、著者が「むすび」で警告していることは、文民統制が機能しなかった海軍の軍産学複合体は結果的にセクショナリズムを招き、一元的な統制システムが構築できなかった点にあるのだとすれば、逆に一元的な動員システムを構築できた米・英は日本に比べて「良かった」、ということになるのだろうか?

・そもそも、軍産学複合体がまずいのは、国家全体の政治を圧迫するような「一元的な」権力を持つまでに肥大化するというところにあるのではないのか? (軍が入っていなければ良いよいということになるのか。)

 

 

 

 

 

畑野、2005年、第4章。

第4章 戦時体制期の日本における軍産学複合体の活動

  • 本章の目的:海軍の政治力が、(1)海運統制への介入、(2)海軍造船官による計画造船の実施、(3)物資動員における海軍の影響力の増大、という3つの段階を経ていくプロセスに注目し、そこにおける軍産学複合体が果たした役割を明らかにすること。

 

4-1 海軍造船官による計画造船の実施

  • 太平洋戦争では、商船建造による南方資源の海上輸送能力の増強が重要課題となった。
  • 海運統制国策要綱(1940年)→海軍政治力上昇(≒陸軍の政策関与に対抗しうるパワーの獲得)にとっての好機となる。

→海軍の対応:軍務局と兵備局の設置

→「海務院設立準備委員会」(1941年、2月)

逓信省からの反発

⇔同年8月に、海務院(逓信省の外局)が設立。戦時海運関係施策の計画立案・指導監督を行う組織。=海軍主導による海事行政機構。

  • 戦時海運管理要綱(1941年、8月):海運と造船の一元的な国家管理を実施。

→1942年に「戦時海運管理令」、同年に船舶運営会が発足。

こうした民間企業を重視した海運統制に対しては、官僚主導の統制・陸軍の関与を忌避する政治勢力から期待が寄せられた。

  • 艦政本部による海上輸送能力増強を目的とする造船計画の実施は、日米開戦の決定(帝国国策遂行要領)と表裏一体:

御前会議における鈴木貞一の説明→海軍主体による造船統制により海上輸送能力を確保すれば戦争遂行が可能であるとの見解。

☜このベースになったのが、艦政本部の造船官による国内造船能力の算定

(=当時の造船能力算定としては唯一のもの。)

(一年目;40万総t、二年目;60万、三年目;80万)

→「連絡会議」でも披露。

  • 艦政本部第四部の造船官=計画造船のブレイン。

:平賀のもとで指導を受けた、「大和」型戦艦の計画・建造に携わったもの。

→それまで培ってきた艦艇建造の技術や、民間造船所に対する指導・監督の体制を、そのまま戦時中の計画造船の実施に利用した。(ex 工数統制、材料統制、金物の制式制定、早期艤装法など)

  • 計画造船の資金面での措置:産業設備営団(政府出資の特別法人)が利用される。

:太平洋戦争をきっかけいにして、同団体は軍需産業のうち、とくに造船・造機の拡充計画実施の中心的な組織に変化した。

  • 海軍による造船発注の一元化:民間造船・海運業にとって歓迎すべきものだった[1]

∵海軍は船舶の国有化を意図しておらず、海運業者の創意・才腕を発揮させる領域を認め、「イニシアティブを失わない限りにおいて企業を確実に発展させる」方法だった。

⇔陸軍(・革新官僚):統制規則をつくって縛る、会社の人格を認めないやり方

国家社会主義的な運営。

→物資動員計画における海軍の政治力向上と、陸軍の発言力の低下。

  • 戦時体制における海軍の政治的影響力の強化は、軍産学複合体の存在によって実現した[2]

 

4-2 日本海軍と軍産学複合体の問題性

  • ガナルカナル戦敗退→短期決戦の戦略は破綻。

→「五大重点産業」の指定以降、船舶の増産を目的とした動員が実施。

→「戦力増強企業整備要綱」;海軍の政治的影響力の強化のための施策を可能にした。

た。

∵実施主体が産業設備営団とされた。

→陸軍の指導力の低下。

  • 戦時行政職権特例」(1943年):五大重点産業など、軍需物資の生産拡充上、首相は必要に応じて関係大臣に支持を行う事や、各大臣の職権を首相や他官庁に移動させることを可能にする勅令。

☜東條首相は、この勅令の実施は海軍艦政本部による造船業の一元的統制のため、海軍大臣に他省大臣の権限を移管することを主目的とする、と説明される。

本特例は、海軍による造船関係の施策を主とすることで、その実施の正当性がアピールされ、「戦時行政特例法」も成立した

=戦時特例は、海軍からすれば自身の執行措置を法的に追認したものにすぎない。

東條首相はすでに艦政本部の権限で支障なく実施されていた事項を、特例による総理大臣の権限発動によるものとすることで、総動員体制構築における自身の権限強化を図った

  • 海軍は、他の省庁による動員行政の政策の実施に消極的な態度を保持していた。

Ex 1943年軍需省:海軍は兵器工場を自身の管轄下においており、一元的コントロールは完徹されない。

 

(1)科学研究の緊急整備方策要綱:各大学に科学研究動員委員会を設置すること

(2)科学技術動員総合方策確立に関する件

  • 技研主導による大学研究者の大規模動員。

伊藤庸二平賀が技研所長時代に確立した軍学共同研究体制のもとで台頭し、彼の死後もこの体制の維持強化に尽力した人物

  • 特に大阪帝大が、科学動員の要請に最も積極的に反応した集団の一つだった。

:菊池正士。戦時科学報国会。

  • 1944年に技研電波研究部が、島田実験所を設置。「熱号研究」
  • 「F」号研究。
  • 海軍の軍産学複合体の問題:自己拡大・膨張の極限化が、総理大臣の権限強化や陸軍の権限強化という予想外の事態を生んだ。結果として、軍産学複合体の存在と膨張が、一元的な戦時体制の運営を困難にした[3]

 

議論

・本章では、海運行政と船舶造船計画に注目しながら、海軍の政治的影響力の向上と、それを可能にした軍産学複合体の存在について議論されている。

・著者によれば、海軍が従来の「軍産学複合体」の形成を通じて築いてきた民間企業の指導・監督スタイルは、陸軍や革新官僚らの統制とは異なっており、民間サイドからの支持を集めていたという。それは海務院の設置や、戦力増強企業整備要綱の実施における海軍ポリティックスの拡大を実現した。だが、皮肉なことに、海軍による海運行政の一元化が、東條首相自身の権限を拡大するための論拠として使われてしまった(つまり、海軍による造船関係の施策の重要性を認め法的に追認すると同時に、それを主目的とする「戦時行政特例法」の公布を通じて、東條(や陸軍)の影響力の拡大を図った)。

このことは、言い換えれば、海軍の軍産学複合体が結果として戦時行政の一元的運営を困難にしたというわけであり、これが著者の結論である。

 

・著者が、戦時期という極めて複雑な時代を扱いながら「軍産学複合体」という観点からどのようにストーリーテリングするか、相当悩んだ形跡が見て取れる。要するに本章の議論を一言でまとめれば、軍産学複合体を背景とした海軍政治力の強化に陸軍が便乗してしまい、結果としてセクショナリズムが皮肉な形で展開していった(=軍産学複合体の問題)、というシナリオである。

・だが、評者が思うに、セクショナリズムが横行する状態で、アイゼンアワーやレスリーが意味していたような「軍産学複合体」(=民主主義や学問の正常な機能・発展が歪められるパワーエリート的政治)が存在しうるのかどうか、そもそも疑問である。

・つまり、海軍の軍産学複合体は、あくまで陸軍や革新官僚に抵抗する「だけの」、国家全体としては部分的な政治力しか持てなかったのであって、それは、アメリカで発生したmilitary industrial academic complexとは次元が違うものであろう。その点を終章で整理していただけるのかどうか、気になるところである。

 

[1] この論点は初耳である。海軍の民間企業の指導・統制は、陸軍や革新官僚による国家社会主義的な、ハードで、リジッドな「統制」とは毛色が異なるという指摘であるが、本当なのだろうか?

[2] 海軍と民間企業の良好的関係や、平賀のもとで養成された艦政本部第4部のスタッフらの活躍などを前提にした主張と想像されるが、軍「学」の繋がりは、この主張にどう関係してくるのだろうか?

[3] このストーリーは、かなり無理があるように思われる。

 

 

 

畑野、2005年、第3章。

第3章 軍産学複合体の復活と日本の戦時体制化

3-1 ワシントン体制の崩壊と軍事工業の成立

  • 1931年満州事変が勃発し、軍縮条約で弱体化していた軍産学複合体が復活する。斉藤実(元海軍大臣)を首班とする内閣において、様々な産業強化政策が実施された。:
  • 船舶改善助成施設(1932年);助成金によって不経済船を解体し、優秀船を建造させる。並行して海軍が艦艇補充計画として38隻のうち半数を民間の造船所に発注した。(また平賀は本格的な実艦実験も行う)。
  • 八幡製鉄所と民間鉄鋼業の製鉄合同;1934年に日本製鉄株式会社が発足。「産業合理化」の一環として進められていたものが、斎藤内閣の下で実現。技術面では、野田鶴雄が主導。(Cf 「野田曲線」)
  • 石油業法」による燃料国策の樹立;1933年に液体燃料についての協議会が発足し、「燃料国策実施要綱」が作成され、石油業法が成立(1934年)。商工省ではなく海軍が最も積極的。(∵海軍次官藤田が吉野に照会状を出し、その結果協議会が設置された。)
  • 日本学術振興会の設置(1932年):財部彪が運動に関与して以降、「国防方面と工業方面が一心同体」となるような、海軍・産業界の要求を実現することを目標とした制度に変化[1]

 

  • 軍学:「友鶴」の事故を契機に、臨時艦艇性能委員会が設置(1934年):加藤が委員長で、平賀を委員に招き、平賀が九州帝大、東京帝大の部外研究者を嘱託として理論点から検討を行われた。さらに、東大の船舶工学科には、「海軍技術研究所東大分室」の表札が掲げられ、大学研究者と軍の関係が以前より密接になった。
  • 軍産:地方統制工業=反条約派の山下らが中心になって、科学的管理法による中小企業の育成を企図。

 

  • 1936年末にワシントン・ロンドン条約が失効。新戦艦(=大和・武蔵)の基本計画が始動。 →第三次、四次海軍補充計画が具体化されていき、八八艦隊時代を思わせる艦艇建造競争が生起

 

→平賀は、武蔵の建造を三菱長崎造船所に発注することを支援。

☜これらの背景には、満州事変の勃発と艦隊派の政治的台頭があった。

 

3-2 戦時体制における海軍・大学間協力関係の緊密化

  • 1937年軍需工業動員法が発動、同年企画院が統合、1938年国家総動員法の公布。

⇔海軍:資源局と企画庁の統合には反対

∵企画院を拠点とする革新官僚の存在は陸軍と一体視され、企画院の施策は海軍の権限低下を意図したものとみなされた。

☜1938年に「不足資源の科学的補填」を目指す科学審議会が企画院に設置されると、「科学審議会設置に関する意見」として、海軍は「企画院(実質的には陸軍)が之を掌握せんと思想は、科学に最も縁遠き者に科学研究の方針を左右せしむることとなり、適当ならず」という意見を表明。

=従来、産業界・大学との密接な関係によって築いてきた技術研究開発に主導権を陸軍に奪われることを警戒した。

  • 文部省は対抗策として、同年に科学振興調査会を設置。;純然たる学術行政に関する審議会。

=海軍と大学が陸軍・革新官僚による研究開発の統制に抵抗し、イニシアティブを保持するための提携関係を構築する契機となる。

→同調査会では、平賀(+波多野)が主要メンバーとして積極的に発言を行う。

第二工学部の設置、科学研究費交付金などが実現されていく。

  • 平賀に対して、一貫した支持が存在したのは、調査会の活動中に平賀が東大総長に就任しており、戦時下の大学拡張・地位向上に尽力していたから。

そして、このことは同時に、海軍にとっても自らの政治的立場を強化しうるものでもあった

 

3-3 平賀東京帝国大学総長による軍産学複合体の強化

  • 「平賀粛学」

☜陸軍統制派の石原莞爾のブレーンでもあった土方(=海軍にとっても警戒の的)がパージ。

  • 1940年には平賀は学術研究会議の会長に就任。

→人文・社会科学部門をも包摂するようにシフト。

=官僚による研究統制に反対だった知識人らにとっても歓迎すべきこと。

  • 第二工学部の設置:総長の平賀が海軍当局と接触し、計画は急速に実現に向かっていった[2]
  • 工学部総合研究所の設置:委託研究21件のうち、半数以上の11件が海軍からの委託が占める。=狭義の軍事研究よりも軍民両用研究。

⇔かねてから軍学一体の「総合研究」の重要性を主張していた平賀の推奨によるものと推測される。

  • (「国体の本義」を入れることに抵抗・阻止。)
  • 以上、総長の平賀時代に、帝大との関係は深化し、人文社会科学系の研究者の協力を獲得した。海軍・大学の勢力が、企画員・陸軍による科学技術行政の掌握の失敗・戦時体制の挫折をもたらした。

→1940年「科学技術新体制確立要綱」→学界・産業界・文部省の抵抗によって、内容は大幅に変更。=科学技術動員における企画院の影響力は限定的なものとなった

  • 企画院主導の経済新体制にも消極的姿勢をとった。

:美濃部→高木「一般官庁は自己の希望に近き海軍の主張を利用し、之を背景として陸軍と争ひ以て現状維持を守らんとせり。…海軍プラス「シヴイル」対陸軍の対立の形を生じ…」

軍産学複合体を通じて工業界・学界との関係が密接だった海軍は、civilの政治勢力であると評価されていた

  • 平賀(-1943)が戦時体制においてキーパーソンになり得た理由

ナショナリズムと国際性との矛盾的共存(=イデオロギーとしては国家主義的であり、技術者としては国際的存在)。

 

議論

  • 本章では、満州事変勃発後に軍縮条約が失効し、八八艦隊計画を彷彿とさせる新戦艦の建造計画が再始動する中、軍産学複合体が復活する経緯が描かれる。
  • 評者は、1930sにおける技術政策・(学術政策)における海軍の影響力は大きくないとの認識だったが、本章で述べられる内容(=船舶改善助成施設、石油、学振、科学振興調査会、第二工学部)を読み、これらには海軍が重要な役割を果たしていることがわかった。
  • 一方、商工省の技術政策と海軍の関与は薄いという認識は依然として修正されることはなかった。それもそのはず、筆者はこの章で以下のような対立図式を軸に議論を進めているからである。(商工省の革新官僚と海軍とは対立する影響関係にある。)

 

  • つまり著者が提示しているのは、海軍の政治力は、東大総長=平賀のもとで主に大学セクターと絡む形で、学振や文部省を中心に拡大・展開していったというシナリオである。したがって、海軍は企画院=革新官僚系列とは対抗する勢力であったという見立てになっている。

 

  • こうしたストーリーテリングには、確かに納得できる面もある。しかし、そもそもこうした勢力の対立がある中で、この時代の日本に「軍産学複合体」があったと主張できるのかはかなり疑問である。
  • なるほどたしかに、この時期には、条約の撤廃によって軍拡が再び進行し、大和・武蔵の建造も行われ、大学も技研の「分室」となって一層癒着が深まり、民間企業への新戦艦の発注によって軍産の癒着も強化される。加えて、東大総長=平賀のもとで文部省・学セクターの支持も集め、陸軍に対抗するcivilの政治勢力としての立場を強固にしていき、企画院の政策を挫くことにも成功したのであれば、それは「軍産学複合体」の実現であったと言えるかもしれない。

 

  • しかしそうであっても、その海軍のpoliticsは、あくまで陸軍―企画院のpoliticsに抵抗するパワーしか持ち得なかったのではないか?そうだとすると、それはアイゼンアワーが警鐘を鳴らしたような、民主主義全体を脅かすほどのパワーエリートとしての「軍産複合体」や、それが科学研究を必須のものとしているがゆえに学セクターがbuilt-inされた「軍産学複合体」(=民主主義だけではなく学問ディシプリンの健全な発展さえも歪め・圧迫するものである)とはやはり次元が違うのではないかという気がしてならない。

 

 

[1] 財部の関与については、山中千尋日本学術振興会の設立: 組織形成と事業展開」『科学史研究』第60巻298号(2021年)、131-149頁も参照されたい。ここでは、財部の関与以降、産業界の活性化という要素が全面化したと述べられている。

[2]東京大学第二工学部の光芒』(東大出版、2014年)、21頁にも同様の記述がある。

 

 

 

 

 

畑野、2005年、第2章。

第二章 日本国内での軍産学複合体の成長と停滞

2-1 対英依存から国内の軍産学複合体形成へ

:筑波(1905年)、生駒(同年)、鞍馬(同);12インチ砲を4門。

→薩摩(1905年)、安芸(1906年);当時世界最大級の戦艦。

  • 同時期に、英国ではドレッドノート(1905)、インヴィジブル(1906)が起工:蒸気タービンを搭載。

⇔日本の主力艦は、これらの弩級艦に比べて、竣工以前から「旧式艦扱い」された。

:「海軍整備の議」→1907年以降、海軍省における艦船製造費の割合は最低30%以上を占め日露戦争後の緊縮財政下であったにもかかわらず、海軍省費全体が増加する最大の要因となった。

  • 弩級主力艦の国産化は、英国技術の調査・取得によってなされる。

英国の弩級艦についての詳細な調査を行い、日本海軍の建造指針を提供したのが平賀譲

  • 平賀の調査報告:同艦の高速力は蒸気タービンに加えて、船体重量の軽減、機関部重量の増加を考慮した重量配分、試験水槽における実験に基づく船型の確定によって実現したとの認識。

 

  • 軍産①:1905年の蒸気タービンの装備を決定し、1906年アメリカフォーリバー社からカーチスタービンを輸入する。と同時に、国内の民間造船所=三菱・川崎造船所においても、タービンのライセンスを購入し、製造を促進される。

=民間工業育成策

(☜英国でも民間においてタービンが広く普及している。民間会社の経験・技術が軍艦計画に活用されている。→日本の民間工業の反省。)

  • タービンだけではなく、鋼材と大砲の開発・製造のためにも、八幡製鉄所日本製鋼所との関係を深めていく。←英国の兵器産業のバックアップ。
  • 「金剛」型巡洋艦の民間造船所への発注。

☜『帝国国防史論』(1910):日本海軍拡張における民間工業振興の必要性を主張。→超弩級主力艦建造の民間造船所への委託が推進される。

 

 

  • 軍学
  • 1897年に委託学生制度によって、東京帝大工科大学の海軍への就職の斡旋が行われる。=学費を支給する代わりに、卒業後は造船・造兵・造機の各部署に中尉として任官させる。
  • 東京帝大造船学科における軍事研究:船体振動実験(1904年)。パービスや大森房吉。
  • 造船学会の誕生(1897年):初代会長には海軍中将の赤松が就任。
  • 海軍艦型試験所の設置:弩級時代の主力艦国産化を可能にするための研究開発体制。海軍と東大造船学科との関係は密接になった。
  • 日本国内における軍産学複合体の形成は、この時期において実現した

超弩級主力艦の開発と整備を主体とした海軍拡張は、国内重工業の発展と一体化し、軍産学複合体の自己拡大に対する抑制が困難になる。

 

 

2-2 平賀譲の登場と八八艦隊の建設

  • 1907年「帝国国防方針」=八八艦隊(戦艦・巡洋艦をそれぞれ8隻持つことが国防上必要である)の整備を定める。

⇔予算上の制約やジーメンス事件(1914年)によって実現は困難になる。

  • 八四艦隊案の提出(1914年)→WW1により海軍拡張を後押しする。

加藤友三郎海軍大臣に就任(1915)。

→1918年度予算で八六艦隊計画が成立、1920年度予算で八八艦隊計画が実現。

=この計画のプロセスで、海軍と民間企業の連携による主力艦の国内建造が実施された。☜キーパーソン=平賀譲

  • 平賀にとっても主力艦計画における課題:
  • 船体重量などの軽減、(2)高出力機関などの選定。

→八四艦隊計画の最初である「長門」計画への関与は、平賀がこれらの課題の解決を実施する機会となった。

→これを梃子として、八八艦隊計画においても用兵側の要望を実現する計画案を主導した。(ex 加賀)

  • 1920年八八艦隊計画の予算が成立すると、平賀は同年12月に艦政本部第4部の基本計画主任に就任し、八八艦隊主力艦全ての計画の主導権を得る

ドレッドノート以来の大艦巨砲主義に基づく世界最大級の主力艦計画案を提示。

  • WW1後の不況で、国内造船業が停滞。→政府は造船業の救済策として、八八艦船建造の民間への発注を決定。=この時期の国内産業開発は、海軍軍需の対応としてなされた。
  • だが、その一方、平賀の計画した主力艦が大型化するにつれて、建造費は国家財政を破綻しかねないほどの負担になっていく

八八艦隊計画は、物価の高騰による予算不足が遅れをもたらし、鋼材費の上昇ももたらすという悪循環のため、成立時点から実現困難なものだった。

→海軍内では、条約の締結が軍産学複合体の弱体化につながるという認識が共有される。Cf 田路坦、加藤寛治ら「艦隊派」の台頭:軍縮反対論を唱える。

→ロンドン軍縮条約(1930年)の際に「統帥権干犯論」を唱え、政治問題化する。

 

2-3 軍縮下の軍事技術開発基盤の拡充

  • 1925年に平賀は海軍技術研究所の造船研究部部長に転出。

艦船計画について直接の権限を持たない役職。=「左遷」(※平賀本人も、海軍部内の者もそう見なしていた。)

∵平賀の方針:大型径砲を多数装備した主力艦による艦隊決戦を重視(大艦巨砲主義)

ワシントン条約下:巡洋艦駆逐艦、潜水艦などの「補助兵力」の活用を重視する新たな海軍戦略が模索される。

  • 技研への「左遷」は、大艦巨砲論の挫折の結果であると同時に、軍縮下において技研の役割が上昇した結果でもある。=兵器の量から質へ 

→艦型試験所、造兵廠、航空機試験所、火薬試験所を統合し、総合的な研究所としての海軍技術研究所が設立(1923年)。さらに、1925年には4部制になる。

平賀の転出は、WW1後の海軍が技術研究の規模を拡大する動きの一環として実現されたとも言える。

→1925年には技研の所長に就任し、広く海軍技術開発の全般を指導する機会をもたらした。

  • 平賀の骨子:(1)総合研究の遂行
  • 他の研究機関との連絡とその利用 (ex 長岡半太郎日本光学工業株式会社(1917年))

退役海軍軍人の企業・大学への転出とそれに伴う技術移転。海軍委託研究・海軍嘱託を通じた大学・民間企業における軍事研究。

=国内の技術者の助力を得て、技研内で独自に研究開発が進められた[1]

  • 平賀自身も、新鋼材(=DS鋼)の開発・生産に重要な役割を演じる。

:英国からサンプルを持ち帰り、川崎重工八幡製鉄所において研究を行わせる。

  • このように、平賀の技研所長時代は、海軍技術が民間に流出し、企業での技術開発が急速に進んだ時期。平賀は1931年に所長から予備役に編入

→1931年の満州事変勃発により、軍縮期に逼塞していた軍産学複合体が再び復活することになる。

 

 

議論

・本章では、平賀譲が推し進めた八八艦隊計画の下で軍産学複合体が実現する経緯と、ワシントン軍縮条約によって軍産学複合体が停滞する過程が描かれる。

弩級艦の国内建造というスローガンの下で、東大造船学科や三菱・川崎造船所との癒着によって軍産学複合体が作り出され(下図)、それが国家予算を逼迫するまでに肥大化した八八艦隊計画(=海軍の政治力の象徴)に結実した。=「軍産学複合体の実現」

・一方、ワシントン海軍軍縮条約の締結によって軍産学複合体は停滞期を迎えることになる。反軍縮路線を掲げ補助兵力重視の発想と対立した平賀は、技研に「左遷」されることになった。

・しかし、他方で条約下では兵器の「量から質へ」という路線が変更された時期でもあり、平賀の「左遷」は海軍が技術研究の規模を拡大する動きの一環として実現されたと見ることもできる。平賀が所長に就任すると、委託研究を通じた学との連携や、民間企業との共同研究も活発化した。

・本章の疑問点は、何を持って軍産学複合体の「完成」としているのかがあいまいなところであると思われる。国家予算を逼迫するまでの政治力をもち、海軍のポリティックスが頂点を迎える側面に着目して「完成」としているのだろうか?

・一方、この時期に海軍が進めた八八艦隊計画と、三菱・川崎・八幡・日本製鋼所との癒着、東大造船学科の癒着関係、さらにはそのもとでの海軍政治力の肥大化というシナリオは、ある意味で納得できる点も多い。だがそれは、造船技術という西欧諸国でも比較的伝統があり、国内でも明治時代から歴史を持つ技術を例にした場合なのであって、いわゆる(電気・化学といった)新興技術の場合においては同じ主張ができるのかどうかは、別の検討が必要だと思われる。

 

[1] 委託研究、海軍嘱託を通じた外部研究者との共同研究は、技研設立以前の造兵廠の時代から行われている(ex 三六式無線電信機開発における木村駿吉、アーク送信機開発における水野俊之丞、リーベン管製作における林房吉など)。したがって、平賀の所長就任以降にこうした動きが本当に進展したのかどうかは、嘱託の人数や委託研究の件数の推移などから実証的に確認する必要があると思われる。