第六章 技術的運動量
- 1890sのうちに、多相システムは「運動量 momentum」を増していった。
:運動量の増加=技術内/外の人、アイデア、機関の間のシステム的な相互作用が、大衆的運動と方向をもつ一つの技術=社会的システムの発展をもたらすようになる[1]。
運動量の大部分は、メーカ→教育機関→研究機関によってもたらされた。
→新しい世代の発明家・技術者が貢献する。
6-1 教育機関
- 拡大していく電気工学の教育・専門化が、1890sに電灯・電力システムへの傾斜を強め、その運動量(momentum)を増した。
→技術教育機関は、どのようにして物理学と技術の実践とを橋渡ししたか?
→「電気工学の科学science of electrical engineering」を確立する。=組織化・定量化・一般化された知識
- 電気工学の教育機関の整備と、電気産業の形成は相互作用した。
→その結果、電気工学は科学的な性格を持つようになった。
- 1862年モリル法。1882年に70、1899年に89の教育機関が工学の専門教育を実施。ドイツの場合はTHが科学に重点を置いた技術教育を実施。
- これらのカリキュラムは、多相万能システムと長距離送電への移行、その運動量をどのように反映していたか?
:ベルリンではジーメンス、AEGがあることが、機械学、機械工学のコースを重視する原因となった。
:アメリカでは1882年にMITが最初の電気工学の四年コースを設立。コーネル大学も1883年にアントニーを長とする電気工学のプログラムを設置。イギリスではエアトンが中央学院で電気工学の教育を開始(1884年)。
☜電気工学の創始者に共通する特徴=物理学を学んだこと。また、アカデミックでもコンサルタントの仕事でも、実地経験に重きを置いていたこと。
→電気工学のコースが科学的な傾向を帯びた理由を説明する。
- 1884年のMITの電気工学コース:技術を科学の応用とみる物理学者の見方が反映されている。
→1899年には、交流機発電、電動機、変圧器が含まれるようになり、備品の大部分は多相交流の電灯・電力システムのためのものだった。
(英国でも同様の傾向。MITやコーネルと引けをとらない。イギリスの電気供給産業の遅れは量的なものであり、質的なものではなかった。)
6-2 研究機関
6-2-1 大学
=多くの雇用者は、大学院での勉強を「大学のあたりをうろついて」時間を浪費すること、現実世界と面と向かうのを避ける手段だとみた。
⇔大学人たちが研究を行い、結果を発表していた。=工学の科学者。
- 彼らは逆突出部に関係した状況の中で自分の研究プロジェクトを選んだのであり、進化しつつある純粋科学のパラダイムに反応して選んだのではなかった。
☜逆突出部=万能都市システム、高電圧送電の中に見出された。
Ex 大学人=ライアン(1899年):コロナの発生とそれに伴う線間の損失に影響する諸変数を精密に規定。
6-2-2 企業内研究所
- ウェスティングハウスのようなメーカーが、送電における決定的問題を解決する努力の先頭にたった。
Ex チャールズ・スコット:ウェスティングハウスの実験室で送電線現象を観察したのち、エネルギー損失が起きていることを発見。=「コロナ」と呼ばれるように。
→スコットとラルフ・マーションが、電圧レベルを変化したときに「線間」損失を人組の数表にまとめた。
→線間の電圧が「約5万ボルト」を超えると、高いレベルのエネルギー損失が起きることを示す。=逆突出部。
- 1892年:所有特許を補い合うようにEGEとトムソン=ヒューストンが合併。
→93年にチャールズ・スタインメッツが雇われる。
スタインメッツ:ブレスラウ大学で数学の博論を完成、社会主義運動に加わり逮捕を恐れてスイスに亡命。チューリッヒ工科大学で機械工学を学ぶ。1893年に、AC回路の改正機に複素数の代数を適用することについての重要な論文を発表。
☜当時のアメリカの大学人・産業技術者は、経験だけによる研究を乗り越えて、技術上の決定的問題を解くのに数学的・科学的アプローチをとりつつあった。
- 1902年(?)GE研究所が設立
∵①ヨーロッパからの技術的挑戦に対抗。
- 市場での優位を確保するためには特許が重要。
→ホイットニー、クーリッジ、ラングミュアの仕事。
(ex タングステンフィラメントの研究には、1910年で54000$=GE研究所全支出の1/3が当てられた。)
- ホイットニーは、自社の研究者たちを商業的活動から遠ざけるように、週ごとの討論会や科学論文の刊行などを行い、理学博士を持つ科学者たちが性に合っていると感じるような雰囲気を作り出した。
⇔彼らが生み出した結果は全て会社の財産になり、特許権も会社のものとなった。
6-3 協会や雑誌
- さらに強化をもたらしたものは、専門家の協会の成長で、定期刊行物の刊行、年次集会、職業教育の推奨などを伴った。
☜科学者・技術者に高電圧送電の問題に向けさせる役割を果たした。
:AIEEアメリカ電気技師協会(1844年)、その機関誌『トランザクションズ』、『電気世界 Electrical World』、英国の電気技師協会(IEE)、『IEEジャーナル』、『エレクトリシャン』など。
[1] 技術史的に重要なのは、「運動量」と「技術決定論」(およびそれが含意する技術の自律的な前進≒unfolding process)との関係であろう。結論から言えば、この「運動量」の存在は、技術決定論を支持するものではなさそうである。
なぜなら、運動量(モメンタム)は、純粋に技術的なものではないからである。運動量は、専門知とハードウェアが実践家集団(ex 大学人、企業内研究者)の利害関心の中に埋め込めこまれる限りにおいて機能する。つまり運動量は、技術的要素と社会的要素が組み合わさった概念であり、技術と文化の現実を深く結びつける概念なのである。(John M. Staudenmaier, Technology’s Storytellers- Reweaving the Human Fabric, Chapter 4を参照)
[2] 非常に興味深い指摘。日本でも同様の傾向があったかもしれない。大学院が研究機関として確固たる地位を確立する経緯はどのようなものだったのか。