平本厚「真空管産業における独占体制の形成」『研究年報経済学』72(2.3)(2012)
はじめに
- 本稿の目的:1920s末の交流用真空管の開発から、戦時統制が本格化する1941年頃までを対象に、真空管産業の発展を分析する。
- ただし、ラジオ受信管を中心に取り上げ、分析主題は産業組織(企業間競争など)に絞る。
- 1930年代前半の市場と企業間競争
- 技術革新の展開
- (1)エリミネーター化:乾電池の交換や蓄電池の充電の手間を省き、維持費の低減を可能にする。技術的には、交流特有のハム(雑音)をキャンセルすることが課題だった。:
- アルカリ土類金属の酸化物を塗布するもの;UX-226(RCA、1927年)→(東京電気、1928年末)。
- 傍熱型;UY-227(RCA、1927年)→(東京電気、1929年)。※宮田製作所は東京電気より1年早く発売。
- (2)多極管:
- 247は、日本の家庭用電源に適した247Bという改良型を発売している(東京電気、1932年)。同じく、検波管の227も、227Bという日本独自企画の改良型を販売している(東京電気、1932年)
- 日本の真空管技術の向上
- 1932年頃には、アメリカの基本形を日本の事情に合わせて改良した真空管が開発されるようになった。=基本形の改良製品を開発できるレベルになった[2]。
- 東京電気の製造技術:1929年にGEからシーレックス・マシンを導入、また高周波電気炉も設備し、227の生産を行なった。
⇔ただし、224のアノード製作に関して、東京電気のpress 加工技術が低く、梨地(なしじ)になってしまう。→特徴曲線が一致しない。東京電気の製造技術は、20s末でも高いとは言えない状況。
⇔Standardizing Noticeという製造技術の指導書が1931年6月から32年5月まで送られてこなくなったり、1934年には東京電気の技術者への情報公開を渋るようになってきた。Cf 今岡賀雄の報告書(東芝社史編纂資料室所蔵)
=東京電気の求める情報が高度化したとも言える。
- 企業間競争の展開
- 1930年にフィリップス日本法人が設立。フィリップスも国産品と同じ程度まで値下げをする。
→東京電気も値下げによって競争を挑む。
- 東京電気の特許戦略と独占的地位の確立
- 東京電気が持つラングミュアー特許=1930年2月までだったものを5年の延長を申請・認可。
- 1932年に日本真空管製造所に対して東京電気が勝訴。
=同社の特許権優位が決定的なものになる。
→セカンドメーカー12社は、1932年に日本真空管協会を設立し、東京電気と抵抗を続ける。
- ただし、1932年以降、東京電気の真空管価格は大きく変動しなくなる。
→このころに、同社のプライス・リーダーシップが確立した。
- 1930年代後半の市場と企業間競争
- 技術革新の展開と停滞
- (1)多極管、複機能管[3]の出現。
(2)小型管:エーコン管(RCA、1934年)→(東京電気、1938年)。
(3)金属管:キャトキン管など(1933年、英国のCatkin)→(GE、1935年)→(東京電気、1938年) ※アメリカの新型ラジオの60%が採用。
⇔1930s半から新型管の製品化は3-5年の遅れを見せるようになる。
∵ラジオ側からの需要がなくなり、市場の成長が限定的になった。(主に軍用に使用された[4]。)
- 有力企業の参入
:これらの有力メーカーは、東京電気と資本・技術提携を成立させる。
- 東京電気の対応
- 東京電気側は、(1)セット・メーカへの投資、(2)真空管メーカーへの投資(ドン真空管、宮田製作所、東京真空管販売株式会社)、(3)潜在的な競争相手である真空管メーカーへの投資(富士電機、沖電気)、によって対抗。
- このように1935年以降、東京電気は株式所有を通じて、真空管市場の確保を図った[5]。
- 1935年に東京電気の無線部門は、東京電気無線株式会社として別会社化した。
☜GEの子会社であることから軍から歓迎されない傾向があり、軍需への依存が強い無線機部門を別会社化することで対応しようとした。真空管事業については、送信管部門が同社に移管され、受信管は東京電気に残された[6]。
- 中小メーカーの凋落
- セカンドメーカーは、1936年に東京真空管工業組合(41年に日本真空管工業組合へと改称)を設立。
- 1940年には中小メーカーが販売会社の設立に向かい東京真空管販売株式会社を設立、41年に生産部門をも統合して東京真空管株式会社となる。=戦時統制の進展。
☜すでに見た通り、これは1940年に東芝の傘下に入っている。
=セカンドメーカーの影響力はほぼなくなる。
おわりに
- 1920s終わりまでは、東京企業/中小零細企業の二極構造
→ラングミュア特許の延長とその確認によって、中小零細企業も東京電気との間で協定を結ばざるを得なくなった。35年に失効したのちも、東京電気は出資を通じて関連企業の系列化を行なった。そして中小メーカーは41年に東芝の傘下に入ったことで、産業主体としての役割を終えた。
1930s半から新型管の製品化は3-5年の遅れを見せるようになる。
:
UX-222(RCA、1927年) →(東京電気、1929年)、UX-224(RCA、1928年)→(東京電気、1930年)、247(RCA、1931年)→(東京電気、1932年)
→ エーコン管(RCA、1934年)→(東京電気、1938年)、
キャトキン管など(1933年、英国のCatkin)→(GE、1935年)→(東京電気、1938年)
[1] 高周波を扱う場合、電極間が一種のコンデンサーになって電気振動が生じてしまうので、+の電荷を持つスクリーングリッドを間に挿入して、そのC(キャパシタンス)をキャンセルする。基本的には高周波増幅に適している。
[2] 日本の家庭用電源に合わせた改良であれば、それほど劇的な改良ではないと思われ、「日本独自」の規格を、どういう基準で判断するかは難しい問題である。
[3] 複機能というのは例えば双二極三極管のようなもので、2つの真空管を合体させたようなもの。
[4] これは二次文献に依拠した記述で、実際に軍の資料で確認しているわけではない。
[5] トラストの促進など30sの産業合理化運動≒経済統制≒準戦時体制への移行を彷彿とさせるが、実際にはこうした革新官僚らの企てとどの程度連動していたのだろうか?
[6] 軍器独立の観点からも重要。また、送信管生産のみを同社に移管したということは、送信管の方が軍需drivenである傾向が強かったことを示していると考えられる。
[7] ほかのセカンドメーカー(中小零細企業)と違った点は、これらのメーカーはテレフンケンやWEなどとの提携があり、東京電気とある程度「対等に」交渉を進め、技術・資本提携を結べたという理解で良いか。