第3章 エジソンのシステムが国外へ – 技術移転
- エジソンとその仲間たちは、自分たちの中央ステーション技術をアメリカの他の都市やヨーロッパの都市に分散・移転することに積極的だった。
- 同システムをロンドンとベルリンに移転するときの歴史は教訓に富んでいる。
∵技術移転(technology transfer)には異なった様式があり、2つの新しい環境の中でその地域特有の技術がどんな運命を辿ったかを明らかにするから。
3-1 イギリスの場合
→企業家たちは、このシステムを製造・販売する独占権を欲しがるように。
→若い技術者、投資家たちがエジソンの仕事に好意的な印象を抱いてパリから各地へと流出したことが、技術移転において重要な効果をもたらした。
- パリ万博のあと、ドレクセル=モルガン社(投資会社)は、ロンドンの電気博覧会での展示を準備するのを支援した。
→エドワード・ジョンソンが責任者に任命。
:工芸協会の主要メンバーにエジソンの展示物を観覧させ、晩餐をとる。
- 1882年3/15にイングリッシュ・エジソン社が発足。
同社の目的:
- 電灯・電熱・電力に関するエジソンのイギリス特許権を全て取得する。
- イングランドで展示されていた電球、発電機、その他のエジソンの設備を買い取る。
- ホルボーン高架橋57番地(=ロンドンの心臓)にある地所を賃借りすること。
- 同年、エジソンの発電機2基をホルボーン高架橋に設置した。他の諸要素もニューヨークのものと同じだった。
⇔ホルボーンの場合は長続きしなかった。
=なぜロンドンに適応できなかったのかは、技術的な説明以外の説明を要する。
- 1882年末までに、電気株への投機はイギリスにおける同年の最大の証券狂態とされる状況になる。
→問題はすぐさま国家レベルに移され、日界と商務省が立法によって全般的な解決を得ようとしていた。
→電灯法(Electric Lightning Act of 1882)の制定。
同法のポイント
:(1)21年間に限って、私企業が所有する規制された独占体を規定した(27条)。
(2)保有期間が過ぎて地方当局が買収するときは、中央ステーションシステムの諸要素をバラバラなものとして評価した価値を基礎にしようと考えていた[1](屑鉄 scrap iron 条項)。
(3)独占権の濫用とみなされるものを予防する条項。(Ex 中央ステーションは、いかなる特定の型の電球も指定することができなかった(18条)。)
→イギリスの技術者は、誰一人として経済・技術だけのことを考えて中央ステーションを設計することはできなくなった。
=法律だらけの環境の中で設計しなければならなかった。
⇔アメリカの条件
- 1883年にエジソン=スワン社が発足し、1886年にホルボーンのステーションは同社によって廃棄された。
- 1882年電灯法が中央ステーション産業を麻痺させてしまったので、電気産業のスポークスマンらはこの法律の修正に集中した。
→1888年に修正法案が成立:民間会社の保有期間が42年に延長。強制買収条件も、民間企業が有利になるように規定し直された。
=セバスチャン・デ・フェランティ (「英国のエジソン」)
- 一連の立法行動=電力システムの世界の中での自分の地位や未来に満足している保守的な態度を反映していた。
3-2 ドイツの場合
- 1881年のパリ万博に参加していた3人の人物が技術移転において重要な役割を果たした。
;(1)ウェルナー・フォン・ジーメンス
(2)エミール・ラーテナウ
(3)オスカー・フォン・ミラー
→2つの中央ステーションの計画:①カフェバウアー周辺、②ベルリン中心部 (≒パールストリート、ホルボーン高架橋)
- ドイツでは米国と同様、憲法の規定により、地方当局は公営事業の規制について独自性を与えられていなかった。
→ベルリン市議会での支配的な主張=私企業がその新規軸のリスクを負うべきものだというもの。(∵市政府への利益の分配を約定していたから。)
→1884年2月:ベルリン市とドイツ・エジソン社は合意。同社はベルリン中心部の区域に市道を配電のために使い、電気を供給する権利を得た。
→同社は続いて1884年5月に事業子会社〔utility〕を設立することに着手。=StEW
- 米国:90kW発電機×6 発電機1につき蒸気機関1。
ドイツ:41kW×12 発電機2につき蒸気機関2。
→ドイツステーションは大胆な冒険とは言えないものだった。
(また電灯は富裕層向けだった。Ex 劇場、銀行、飲食、商店、ホテルなど)
とはいえ、ドイツ・エジソン社は4万2000個の白熱電球を設置し、どのヨーロッパの他の国よりも大きな業績を上げた。期間を考慮すれば、米国のエジソン会社以上の仕事をしたと言える。
- 1887年AEGが発足。StEWもBEWに変更。
→AEGとBEWが率先して自己独特のスタイルを持った中央ステーション技術を開発していく。
- エジソンのスタイルはなぜロンドンで失敗し、ベルリンで成功したのか?
→技術的事情ではなく、経済的事情でもなく、政治的事情である。
:ラーテナウとミラーは、投資銀行や工業上の利害関係社と手を組んで、地方政府を説得して道を開かせることができた。
⇔ロンドンでは、議会による規制が生み出された。
[1] おそらく、システム全体の価値が過小評価されるということだと思われる。