Chapter 1 The Introduction of Taylorism and the Efficiency Movement, 1911–27 (pp.14–57)
Introduction
- 徳川の時代から、生産効率の問題への注意は、農業セクターのみならず産業革命前の手工業のセクターにも浸透していた。また、明治政府は富国強兵のスローガンのもとで、産業化された西欧の技術的達成、組織形態、イデオロギーを研究し、熱心に見習った。
→科学的管理法の導入にとって、20C初頭の日本は豊かな土壌であったように思われる。
⇔しかし、これまでの支配的な歴史見解は、徳川時代の効率性への熱心さや明治政府の経験を軽視し、テイラー主義への異質な感覚が、日本の工場へ浸透するのを妨げたとするものであった。実際、企業的なパターナリズム、情緒的な家族レトリック、管理権の恣意的な行使といったスキーマ(=これらは前近代の残滓とされるもの)が、戦前を通じて日本の管理を特徴づけるものであると考えられる。
- しかし、1910-20sを通じて、テイラー主義は日本の経営者、学者らによって議論され、多くの場合支持されたのである。さらに、確かに日本の産業におけるテイラー主義の浸透は独特なものであったが、大恐慌の時代までにはすでに米国や欧州での影響力と程度においても形においても同等なものになっていた。
- Industrial Management in Japan before Taylor
- 19Cにおける工場の労働管理の状況は、日本もアメリカも似通っていた。
親方制度:会社の経営者は、中間財を「親方(foreman)」と契約する。
親方:半分の独立した、熟練の工場長。仕事のペースや方法、雇用条件、下で働く労働者の訓練に関して広範な権威を有するもの。
←機械化のレベルが低く、幹部がそこまでいなかったため、伝統的な個々の熟練労働者(親方)の能力に依存せざるを得なかった。
- しかし、こうした「間接的な」管理(=間に親方が介在しているために、工場長がすべてを管理できていない状況)は、非効率であった。
Ex 沖電気:親方ごとに仕事のスピードが異なり、ゲージやジグ(治具, jig)も自家製なのでエラーが起き、電話交換機のような多数の工程を必要とする製品では、一つの部品の遅延が全体の未完成を招き、一つの部品のミスが全体の故障につながった。
- 1890sには早くも経営者は生産工程や雇用条件の管理についての直接契約を拡大していった。Ex 『職工事情』(1902年):内部契約は減ってきていると報告。
:所有者と雇用者の一対一の関係へ。
→親方は、経営層に統合されていく。
- 新技術の導入とそれに精通した管理-技術者(manager-technician)の台頭が必要だった。
管理-技術者:大学や高等学校で訓練を受けた人々。こうした学卒者が現場の管理をも担うようになってきて、近代工場では親方制度が消えていった。
→労働と生産のマネジメントのシステム化。
- 企業の「官僚化」、内部契約の減少と並んで、経済不況のもとでのコスト削減と利益の増進への志向も、経営手法の刷新を後押しした。
- このようにテイラー主義が日本に到来した1911年時点で、すでに受容的な読者が日本に存在していたのである。そして、親方制度の衰退に伴う生産工程の合理化とシステム的な雇用関係の台頭は、テイラー主義の導入よりも10年(場合によってはそれ以上)先立ってすでに起こっていた。(ex 日本電気では、1909年に「トレーサー」が任命され、生産の流れを調整するシステムができていた。)
=テイラー主義が導入される前に、職場を再構築するための様々な経営努力があった。
- Preaching the Taylorite Gospel
- テイラー主義の最初の宣教師=池田藤四郎:「無益の手数を省く秘訣」(1911→13年)
≒明治時代の「成功文学」(≠精緻な解説書)→ベストセラー
- 1913年星野ゆきのりは『原理』の翻訳を出版。
→1915年の時点で、科学的管理法と密接に結びついた「能率向上」という言葉が流行するようになった。
- 1919年には東京大学でテイラーシステムについての講義が行われ、1921年22年には東京商科大学、慶應大学でも近代的な工場管理についての授業が行われた。1925年の調査では、高等専門学校(8)、商業学校(8)、実業学校(75)で、科学的管理のコースが開講されたと報告されており、公開セミナーも行われた。
- テイラー主義への関心は、心理学の駆け出しの分野でも広まり、日本にフロイトを紹介した心理学者の上野陽一は「日本のテイラー」と呼ばれるほど、テイラー主義の最も熱心な提唱者だった。
- 1920s後半までは、テイラー主義の普及は日本国家から直接支援されることは少なかった。=国家は管理技法を普及・広報するために、組織的で長期的な取り組みを後援していなかった。(ex 農商務省には1920年に「能率課」が設置され、米国の専門家による講義などを試みたが、日本の産業規模は科学的管理法を導入するにはまだ小さすぎると判断され、結局コンサルタントは招聘されなかった。)
(ただし、逓信省は例外的に、効率性についての広範な研究が行われたものの、管理刷新運動への影響は限定的だった。)
- 農商務省は、西洋の工業技術の実践的な技術習得のために600人の海外研修生を後援した。=間接的な役割の方が大きかった。
→ハーバードビジネススクールの最初の卒業生である村下福松、海軍工廠への導入のパイオニアである後堂卓生らを含む。
- 1910s-20sに日本からアメリカに向かった技術者、管理職は、国際的なネットワークの一部にすぎない。逆に、米国の著名な経営者が、講演会やコンサルタントとして来日しており、また国際会議も行われていた。=1920sを通じて、日本のテイラー主義の擁護者と効率化の推進運動は、国際的な動きとますます密接に結びついていった。
=①国際化の傾向
- ②2つの陣営の間での亀裂:
- 実践派(技術派)(practical stream);テイラー主義に、工場経営の現実的な実践としてアプローチする。彼らの多くは、技術者か工場経営者。(神田こういちなど)。科学的管理法の技術的側面=標準化、体系的計画、作業研究など)を強調する潮流。
- 能率派(efficiency expert);一般大衆や小さな経営者に対して能率増進を訴えようとする派閥。上野洋一など。日常生活のあらゆる側面で「能率の増進」を訴える。(特定の技術というよりは)全体的なアプローチ。23-26年にかけて注目された。
≒こうした分裂は、アメリカと同様の現象。
- いずれの派閥も、テイラー主義の方法や哲学については、欧米の文献に依拠しており、それもそれらを直訳したものが多く、言い換え以上のものではない出版物が多い。=レトリックが強く、内容が薄い(≒十分に内容を咀嚼しているとは言い難い)
→テイラー主義を「魔法の薬」とみなす。過度の期待がかかった。
- マルサスの危機(人口増加と食料の危機)は、テイラー主義の導入にとってそこまで説得力を持っていなかった。むしろ、ほとんどの実業家にとっては、利益の増加と生産コストの削減が最も説得力のある論拠となっていた可能性が高い。
⇔しかし、日本では「労働者との関係改善」という側面も見過ごされなかった。
Ex 日本能率協会の設立声明:労働者の福利増進。
←労働問題を緩和する有望性が最初から意識されていた。
=生産性が上がり製造コストが下がれば賃金も上がり、資本家の利益も増えるというロジック。
→調和と協力が日本のテイラー主義運動のキーワードになる。(ex 上野洋一;「協力」の重要性を訴える。)
→協調会の設立(1919年):労使関係の「協調性」の育成を目的としたシンクタンク。
→1922年産業能率研究所が設置。上野が所長。
- 管理者と労働者の調和は、科学の中立性と産業におけるその信奉者(技術者・近代的管理者)の当然の帰結だった。
←現場の政治的立場を越える「科学の客観的な」命令(objective dictates of science)。
Ex 技術者は、公平で利害関係のない助言をする立場にある。管理は、エンジニアリングと経済の間の技術的仲介、資本と大衆の社会的仲介である。
- Implementing Scientific Management on Taiso Japan
- 日本に限らず、テイラーの教えが正確に実践された作業場は存在しない。
それでも、とりわけ以下の4つの産業分野で、テイラーが規定した計画が活用された。:
- 国有企業(工廠、鉄道)、(2)外国企業とライセンス契約を結んでいた電気機械企業、(3)財閥系の大企業、(4)経営コンサルのサービスを受けていた中小企業。
- 初期のテイラー主義の導入(=新聞にテイラー主義が紹介され始めた時期とほぼ同じ)は、ほとんどがアメリカの工場をつぶさに観察した日本人技術者(ex 加藤しげお)によって指示された。
→WW1後、科学管理の導入を始める企業が増加。機械化と特殊化が進んでいた紡績会社の間でとりわけ普及。
- (2)科学的管理法は電気製品分野でも急速に進んだ。
:1920sには海外との提携が多く、アメリカから(技術だけではなく)経営面でも経営手法の移転が行われた。GEと提携していた東京電気、芝浦製作所、WHと提携していた三菱電機、ジーメンスと提携した富士電機などで、技術者の交流や先進的な管理手法の移植が行われた[1]。
→最も有名な例=1920s半の三菱。加藤武雄が洗練された、motion studyを開始。
- 重要なのは、海外とのつながりのない"技術の自力依存 "を標榜する企業にも、科学的管理の手法が電気製品メーカーに広く浸透したこと。(ex 日立、1919年~)
- (1)大正時代における科学的管理法の賞賛される達成は、鉄道省と呉海軍工廠で成し遂げられた。
=「リミットゲージ」システム[2]。=狭義には、測定値と加工公差(machining tolerance)の標準化) 広義には、分業、計画の一元化、ガンチャートによる追跡などの生産工程に革命をもたらすもの。
→14センチ砲のコストは30%削減。
→ワシントン条約に重武装の流れが阻止され、大量生産は終わる。
⇔「リミットゲージ」は、WW2中も経営者らの関心を惹きつけ続けた。
- (3)効率化の専門化を雇った中小企業:上野洋一とライオン。
- 1920-20sの日本における科学的管理法の実装のプロセスと結果に関して、いくつかの点が言及に値する。
- 近代経営における「最良の方法」に関して、民間企業同士や、官民の間で、情報・経験の交換が行われていたこと。
←新しい技術を普及される公式な制度=研究グループ、雑誌、コンサル以外にも、非公式で、アドホックな手段が機能していた。
=「イノベーションの社会的ネットワーク」(テッサモーリス鈴木)
=科学的管理法のメディア上での大衆化の背後には、目立たないがダイナミックな非公式の構造(テイラー主義の経験を共有し情報を交換する構造)が存在していた。
- テイラー主義のいくつかの要素が他の要素よりも広範囲に実施され、成功を収めた。(ex とくに、時間と動きの研究では、大きな成果があった。)
- 高賃金と低労働の実現よりも、企業の維持(合理化)のために利用された。
- 全体的に見て、1910-20sの日本の工場における科学的管理法の導入は、先行研究で結論づけているものほど頓挫したものではなかった。
もちろん大正時代にテイラー主義が一般化したというのは言い過ぎであり、大量生産の規模が小さく、機械化の水準はアメリカより低く、日本の労働力の安さは科学管理法の普及にとって不利に働いたことは事実である。
⇔戦間期の日本におけるテイラー主義の採用は、西欧と比較して特に遅れたり、切り捨てられたりしたわけではない。
- Workers, Intellectuals, and the Question of Taylorism
- 1910-20sの日本における科学的管理法に対する労働者と労働組合による反応の特徴=無関心であったということ。
確かに、いくつかのストライキは発生しているが、記録に残っている限りは少ない。
=欧米で生じたような強烈な組織的反応や抗議は発生しなかった。
- このような受動的な態度をもたらした理由:
(1)日本における熟練工の組織の弱さ。
⇔西欧の垂直方向につながる熟練労働者の力。
←日本では、科学的管理法の導入に伴って、熟練工の特権が崩されるという論点ではなく、賃金の問題に焦点がまず当たったという事実も、この構造を示している。
- 科学的管理法は、組合潰しの装置であるとの評判を得ていなかった。(日本ではすでに労働運動を抑圧する整備があったために積極的な労働運動は展開されておらず、経営者らは科学鉄管理法=産業関係を破壊する攻撃的な武器とみなしていなかった。
- 日本の労働者は、実際にテイラー主義によって自分自身が高められた(elevated)と考えていた側面がある。科学的管理法の下では、「近代的な工場労働者」という公的な尊敬を得ることがあり、time-motion研究の被験者になることは誇りだったとの証言もある。
- 科学的管理法の実装が、賃上げにつながる可能性が認められていた。
- 他方、アカデミズムや労働の専門家はテイラー主義の導入に批判を寄せていた。
- 労働者への影響:マルクス主義者系。テイラー主義は労働者を非人間化する、労働搾取を加速するものである。
- 労働者を分断し、労働者の運動力を奪うもの。
- テイラー主義の「科学性」はあやしい。:労働科学者から特に批判が集まる。テイラー主義は、心理学的・生理学的根拠にきちんと基づいているとは言えない。
→労働者が疲労に見舞われ、不健康になり、急速に老化していくだろう。
- 大正時代におけるテイラー主義の導入について:
- 消化不良でも、歪められて導入されたわけでもない。テイラー主義に関しては、日本でも深く正確に分析されていた。
- テイラー主義に批判的な人でも、その経済的価値については同意していた。
- 日本の批評家のほとんどが、「本来の」テイラー主義=『科学的管理の原理』で最も純粋な理論的説明を与えられた管理スキーマの風車に逆らっていた。
:福利厚生、疲労の調査なども強調され、従来のテイラー主義では慣例になっていないカテゴリー(労働医学、実験心理学など)が含まれた。(cf 完全な人間工学)
「賃金よりも笑顔や激励の言葉の方が大事」
- 日本の科学的管理の支持者の中には、労働者代表制や団体交渉など、「労働問題」に対する明らかにテイラー主義的ではないアプローチを模索している者もいた。
- 経済学者の野田信夫など、さらに「進歩的な」アプローチ(=テイラー主義と団体交渉の両立可能性や、労働者の発言力を重んじるアプローチ)を推進するものも少なからずいた。
←科学的管理(近代的、個人主義、ヒエラルキー、合理主義を体現)と日本社会およびその伝統(封建的、集団主義、反エリート主義、感情主義を体現)が正面から衝突したユニークな結果であると先行研究では指摘されてきた。
=「改訂版テイラー主義」(奥田健二)
⇔しかし、これが日本「独自の」反応であったかどうかは疑わしい。
:欧米でも、1910-20sにかけての科学的管理法は、一枚岩ではなかった。テイラーの死後(1915)、1920年までの科学的管理は、産業心理学に関連する新しい活動だけでなく、人事部門を含む人事改革の全容を包含するようになった。さらに、「人的要因」を強調することが、テイラーの次世代にとっての重要な是正となっていた。
=「日本版」修正版テイラー主義は、アメリカや欧州で発展した修正版のそれと瓜二つ。
⇔しかし、テイラー主義に対する日本の対応が、外国の動向を反映したに過ぎないと結論付けることは、テイラー主義の修正が日本独自の要因によって完全に推進されたと仮定するのと同じくらい表面的なことである。
(=西洋の「人間化」への修正のトレンドとの接触と同じく、日本固有の事情も考える必要がある。)
→テイラー主義と日本のパターナリズム(温情主義[3])との出会い。
日本的パターナリズム:明治時代から今日に至るまで、日本的経営思想の基礎と広くみなされている不定形の信念と実践の集合。
- Scientific Management and Japanese Paternalism
- 先行研究:温情主義の文化に根差したロジックによって、科学的管理法が骨抜きにされたと指摘。
⇔この指摘は、日本の伝統の影響を強調しすぎており、日本におけるテイラー主義のインパクトを過小評価している。
- 基本的なレベルでは、温情主義もテイラー主義も、高く安定した利益の約束を訴える点で共通している。またどちらも、産業職場におけるマネジメントの権威を確認・強化する点でも共通している。温情主義は道徳の言葉で語られ、テイラー主義は科学の言葉で語られるが、両者とも経営者の特権を確認しようとする考えでは同じである。
=両者は連動する可能性があった。
- ①宇野利右衛門:テイラー主義と温情主義の両立を示している。
;労働の温情の効果的な補助として、「労働者の所得を向上させつつ利益を増進される」、「科学的管理法」を位置付けている。
→日本の科学的管理法の問題は、「精神的な」アプローチが欠落している点にある。乾いた知的枠組みとして輸入している点が問題。
→宇野の観点によれば、テイラー主義の理念は、温情主義に合致して存在しうるのであり、その範疇で導入されるべきものだった。
- ②鈴木常三郎:現場レヴェルで両者の両立可能性を示す事例を提供している。
;慶應→ハーバード大、日光製錬所の所長(1912)。彼は2年以内に生産コストを3分の1に削減し、労働者数を半減させながら残った労働者の収入を倍増させ、生産性と機械稼働率を大幅に向上させ、労働争議を沈静化させた伝説的な人物。
;「美しい習慣」や感情主義に対する賛美の言葉が多く含まれ、テイラー主義の冷淡で非人間的な側面に対する軽蔑の言葉が多く含まれていた。
③戦前の紡績業:温情主義とテイラー主義の両立を示している。
→温情主義は、それが日本産業に広がるにつれて、科学的管理法のエッジを鋭くしていったように思われた。
- 温情主義とテイラー主義の繋ぎ合わせが、どの程度意識的な経営戦略であったかは不明である。しかし、確かなことは、同じような経路を米国でもたどっていたということだる。
:WW1後は、テイラー主義の要素は「福祉労働」に繋がれ、その結果人事管理という新しい領域が誕生していた。
=温情主義的アプローチとテイラー主義の相互強化は、日本だけではなく西欧でも生じていた。
- 1920sの科学的管理法はテイラーの『原理』から大きく進化していたこと(≒欧米でもWW1後になればテイラー主義に温情主義的要素が加わる新しい「修正版テイラー主義」が形成されていたこと)を認識すれば、これまでの研究がどうして大正期の日本においてその導入が歪められたと主張してきたのかを理解することができる。
- もちろん、日本における科学的管理法の導入の過程には、欧米には見られない特異性があったことも事実(ex: その「科学性」に疑念が持たれるといった反応があるなど)
⇔しかしテイラー主義者によって採用された思想的・方法論的な経路は、全く日本固有ではなかった。
=日本の「最良の方法」や経営者の思想は、日本の土着の経済的・思想的影響よりも、国際的なトレンドがより大きく反映されるようになっていた。
=「日本的スタイル」は、1920sにおける日本に根差し始めた産業管理の構造には、大雑把にしか当てはまらないのである。
議論:
・全体の議論の方向性としては、特殊主義(封建制や家族主義、温情主義といった日本の固有性によって科学的管理法の需要が歪められた)から普遍主義(日本の導入プロセスは、欧米のそれを大枠同じであった)へというストーリーの書き換えの試みである。
・これは、今世紀に入ってからの近代史(日本史)のヒストリオグラフィーとしては類型的なものである。(ex 暗黒の谷(dark valley)史観の修正。さらには広重の『科学の社会史』も同じ。20Cの進歩的知識人らが描いたシナリオの刷新である。)
・特筆すべきことは、上記のような書き換えを、見事なロジックでやって見せているところだろう。
・著者は、特殊主義で説明されそうなポイントも都合よく無視するのではなく、きちんと触れている。(ex 日本では、「科学性」に疑義が持たれたとか、労使関係の改善に焦点が当てられたとか、労働医学や実験心理学的側面に特に注意が払われたとか。)
・その上で、マクロに見ると、大正日本のテイラー主義の主導者らは、日本の土着の思想的・経済的影響よりもむしろ国際的トレンドを大きく反映しており、「日本的スタイル」は、「大雑把」にしか当てはまらない、といって反論しているのである。つまり、特殊主義を完全に否定しているわけではないが、普遍主義の枠組みで理解した方が正確であると主張しているわけである。これは巧みな議論であると思われた。
[1] 東京電気では、GEからテイラー主義がどの程度導入されていたのか?資料的に見えるか??社史から見えてくるか?
[2] 限界ゲージ方式とも言われる。以下を参照。https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhsj/26/163/26_156/_pdf
[3] 「労働者へ温情を施すことで不満を抑え、相互の関係を平穏に維持する考え方」といった意味で良いか?パターナリズムも「温情主義」とか、「父権主義」といった訳があると思うが、ここでの正確な意味がいまいちわからない。