第五章 紛争と解決
- 1880s末から90sにかけて「システム戦い」が生じた。
:白熱電灯市場における、低電圧のDC /単相交流。
- DCの「決定的問題」=送電コストの高さ
⇔ACの「決定的問題」=実用に耐える電動機(モーター)がなかったこと。
→本章では、どのように紛争が解決されたのかを検討する。特に法律を通じて行使される政治権力の関与に着目する。
5-1 ACシステムの電動機
- ハロルド・ブラウンの戦略:街路に高圧の交流を流すことと、交流を使って電気処刑を行う動きとを結びつけた。「処刑用の電流が家庭に入ることを望みますか?」
⇔ブラウンの試みは「電力の戦い」の決着にはそれほど効果を及さなかった。
∵彼が活動した時期(1880-90)に、ウェスティングハウスのACシステムを使う中央ステーションの数が着実に増加していた。
- ACシステムの問題=①実用になる電動機がないこと、②高い電流を使うので安全性を担保しなければならないこと。
→AC電動機においても「発明の同時発見」が見られる。(新規軸でなくなったときに、発明・開発はよく起きる[1])
☜逆突出部が認識されたことで、物好き(独立した発明家)発明が決定的問題の解決に利用されるようになった。
:イタリアのフェラリス、アメリカのテスラ、ドイツのドボウォルスキー、フランスのドプレ、スイスのブラウンなど。
(=超国家的)
- ここで優先権が問題にされている発明の正体は?
→交流多相電動機
:①誘導電動機=非同期電動機、②同期電動機
②:回転子(ローター)に供給するための別個の直流電源を持っている。固定子(ステーター)の中の回転磁界の速度=電動機の同期速度
①:回転子は同期速度よりわずかに遅れている。
- ニコラ・テスラ:1877年に直流発電機のブラシと整流子の間に強烈なスパークが発生し、要素が焼き切れてしまうことを問題視。
→ブラシと整流子をなくしてしまうような設計を探し求める。(ただし、このとき求めたものが発電機か電動機だったかはわからない。)
→テスラ電灯=製造会社を設立。
→多相システムについて、1887年10/12に最初の二つの特許が、11月にさらに3つの特許が出願。
:多相同期電動機と、誘導電動機の両方を含むもの。
☜直流システム;発電機に交流が誘導され、整流子によって直流に変えられ、さらに電動機まで配電されたのち再び整流子で交流へ変えられる。
→システム全体を通じて交流を使い、整流子をなくしてしまえば良い。
- 整流子なしで、どうやって磁極を回転させるか?
☞位相のずれた交流によって作り出される回転磁界を考案。
- 整流子をなくし、②回転磁界を使用。=テスラの特許の要点(ただし、②はフェラリスの方が最初に思いついていたかもしれない。)
- これらのアイデアを「経済的な多相システム」として実装したのが電機メーカー。=ドイツのAEG、アメリカのウェスティングハウス。
- 1880s始めに多相電動機とシステムが導入され、それ以前に変圧器が導入されていたので、交流システムは直流システムに対抗できるようになった。
☜DCの逆突出部である「不経済な送電」を直すことができた。
⇔人口密度が高い地域では、DCシステムが拡大し続けていた。
→衝突は、連結(技術的なレベル)と、合併(制度的なレベル)によって解決された。
5-2 連結
- 争いの「技術的解決」に貢献したものは、回転変流機(rotary converter)だった。
☜これも発明の同時発見の一例。
回転変流機の発明を導いた逆突出部=古いシステムに投資された権益を維持する必要があったこと。
回転変流機:直流を多相交流に変換し、それをまた直流に変換する。
☜古いシステムを新しいシステムに連結・統合する技術。
→1890s初頭に、万能システムuniversal systemが必要であると認識された。
=発電機(供給)と色々な特性を持った負荷(需要)を包括・連結する統一されたシステム。
≒上水道のシステム、電話システム、鉄道システム、(コンピュータ・ネットワーク)
→電灯の時代から、電灯と電力の時代へ。
5-3 制度
- システムの戦いは、連結装置によってのみ解決されたわけではない。
☞制度的な取り決めも必要だった。
- 合併
- 技術的基準についての取り決め:メーカー間にあった順応性と妥協の精神が、最大の駆動力となった。
→米国の場合、ウェスティングハウス社のスタッフが周波数を規格化することで生産を合理化しようと努めた。
- (2)→ドイツでは50サイクルに決定。
- イギリスでは無秩序の状態が続く。
☜高度に特殊化された設計をもつことは、その製造業者と彼の設計者が「高尚な応用科学の一部門に従事しているのであって、産業ましてや商売をやっているのではない」。
- 米国と独逸がシステムの組織変えを行なっていたときに、多相システムが長距離電力輸送に適していることも明らかにされていった。
☜フランクフルトの博覧会とフォン・ミラーの仕事。
:彼は博覧会を、広範な観衆に新技術を紹介するための有効な手段だとみた。
→ラウフェンからフランクフルトに至る実物大の送電システム。
1891年に動き出す。効率が74.5%であることが判明。
☞三相システムで動くこの送電システムが、二相システムに取って代り、基準のシステムとして確立される上で大きに貢献した。
- 米国のナイアガラ計画へ。1895年に運転を開始し、96年に送電を開始した。
[1] これはクーンの「通常科学」の議論を想起させる。