平本厚「日本における真空管産業の形成」『研究年報経済学』68(2) (2007)
はじめに
- 本稿の目的:日本においてどのように真空管技術が導入され、産業が形成されていったのかを、東京電気以外のメーカーやそれらの競争関係にも注目しながら明らかにすること。
:ソフトバルブ(オ―ディオン)だったので、動作が不安で、それほど重視されなかった。
- 海外では、その後、リーベン管(酸化皮膜の電極をもつ)を経て、ラングミュアのプライオトロンの発明によって、真空管の技術革新が進む。
- 逓信省:1916年の秋にハードバルブの受信管の製作に成功し、1917年には送信管の製作に成功。同時無線電話機の開発も成功。
- 海軍:1914年に林房吉を招聘し、リーベン管を試作するも失敗。デフォレストを雇う動きもあったが、実現していない。(電気部に設置により、木村駿吉が去り、「国産第一主義」から「輸入主義」に変わった[1]と言われる。
- 西崎の米国からの報告書や、木下季吉の援助をたよりにハードバルブの製作を試みるが難航。とはいえ、造兵廠には真空管製造のための専門工場が建設された。
- 1918年には無線同時電話機の開発にも成功。
- 民間企業における研究開発(1):東京電気
- 東京電気:1916年8月に開始。1917年にオーディオンを陸軍に納入。電気試験所は東京電気に真空管製作を以来。海軍もそう。☜松田と宗をマルコーニ社へ派遣。艦政本部は東京電気と連絡をとるよう訓令を出している。
- このように東京電気は、逓信省・陸海軍から真空管国産化の主体として育成されることになった[2]。
- 東京電気は1918年にラングミュア特許の実施権が付与されたが、当初の真空管製造は自力であった[3]。
- 民間企業における研究開発(2):その他のメーカー
- 真空管研究開発の開始と産業の形成
∵当時の市場では、消費者がその品質(ハードバルブなのかどうかなど)を判断することができず、悪質な供給者が横行することができた。
:1924年の「型式証明」では、3社しか合格していない。(東京電気、日本無線、東京無線電気)☜「悪質」企業が横行していたことの証左。
- それでも中小企業は次第に製造能力を高めていく。(特に拡散ポンプと、高周波電気炉の使用が鍵だった。)
:1928年の「優良受信機器認定制度」では、多くの中小企業が合格している。
- 東京電気の受信管生産
∵製造能力がそこまでなく、手作業だった。(1925.3時点)
- しかし、1925年8月に電球製造用の「シーリング・マシン」、10月に「ステムマシン」、3月に「排気マシン」を導入。1926年3月にはGE社の「高周波電気炉」(ここからおそらく真空管用)、10月に「フィラメント・クリーニングマシン」、「グリッド・ワインディング・マシン」を購入した。(電球用→真空管用)
- さらに、作業工程も、グループ・システム、出来高制を導入し、生産性が3倍に増加[5]。
- 東京電気の特許戦略
- 東京電気はラングミュア特許を当初は発動しなかった。
∵逓信省・軍の保護を受けている状態で発動することにメリットがなかった[6]。
- →1924年にラジオトロンの排他的権利を東京電気が持つことが確認され、12月から1925年1月にかけて、その輸入商社であった大倉商事、高田商会、国際無線電話を特許侵害で警告を出した。同年、日本無線、東京無線、安中、日本真空管製作所などにも警告を出す。patently contedtedの状態に入る。
- 日本無線とは、マイスナー特許と交換が成立。日本真空管製作所はそれでも製造をやめなかったので、審判請求を出す。(1925年3月にはラングミュアー特許自体をGEから譲り受けていた[7]。)
- 東京電気は、ラングミュアー特許によって、真空管生産から撤退(東京無線、安中、沖)、断念(日本電気)させ、生産を制限(日本無線)させることに成功した。
=東京電気/中小零細メーカーという二極構造が成立。
- 真空管市場の展開
- 当時(1927)の市場では、輸入品は約2割しか占めていない。
∵(1)東京電気がGEと提携しており、ラジオトロンの輸入を規制できたから、
(2)国産品の価格が低下したから。
→1927年ことには需要が停滞し、価格を下げるインセンティブが働いた[8]。
→1928年以降には日本の国内価格の方がアメリカの価格よりも低くなった。
おわりに
- 東京電気のラングミュア特許によって、他の有力メーカー(沖電気、日本無線、安中、日本電気)が撤退、参入させないことに成功。
- その結果、(30s初頭頃までの)真空管市場は、トップメーカー=東京電気/中小零細企業という二極構造になった。
[1] これは重要な論点なので、拙稿で掘り下げる予定である。この場合の「輸入主義」というのは、海外から製品を積極的に輸入する姿勢を指すというよりも、輸入した製品をそのまま兵器として採用するということを意味していると考えられる。(ex たしかマルコーニ社の製品の場合、「マ式」みたいな言い方をしていたと記憶している。)
[2] これは「育成」と言えるのかどうかは一つの論点である。
[3] 実施権とは?それは販売と製造の両方を意味しているのか?
このとき自力でハードバルブの製作をやっていたのは、製造機械がまだ入っていなかったということなのだろうか?ハードバルブの製作権はまだなかったのか?
[4] 戦時期までずっとデファクトスタンダートであった。(それが、廃止管をリストアップし(≒型番の整理統合)、実行した一つの理由でもあった。)
[5] このあたりは、明らかにテイラー主義の運動と密接に関わっていると考えるしかない。実証研究が待たれるが、GE側も調べなければならないので、大変な作業になるかもしれない。また、製造機械の仕組みと内容もGE側の資料から明らかにしなければならない。その作業も必要だろう。
[6] 「保護」の中身があいまいだが、これはおそらく、「需要超過の状態が続いていたにもかかわらず東京電気の真空管製造能力がそれに追いついていない状況で発動することはナンセンスだった」、という西村の指摘が妥当であると考える。ただ、製造機械の導入が26年なので、25年の警告はそれでは説明できないかもしれない。
[7] これは製造権?それとも販売権?
[8] 当時のサイモトロンの広告を見ると、たしかに「値下げ」という文字が踊っている。ただ同時に、「製造機械を導入し、大量生産できるようになった」ということも値下げの文字の隣に書いてあることが多いが、値下げは純粋に需要低下ということで説明できるのだろうか?