yokoken002's note

Reserch review on the history of technology and science

長谷川、1995年

長谷川信「技術導入から開発へ」『日本経営史3』(岩波書店、1995年)

 

はじめに

  • 先行研究では、戦間期における重化学工業の大企業の技術発展と、その背景に海外からの技術導入が大きな役割を果たしていたことが指摘されている。
  • 本稿では、これらの成果を前提にしつつ、電気機械企業を中心に企業の技術開発が外国技術の導入・模倣の段階から、独自の技術開発に移行した要因を分析する。
  • 具体的には、
  • 国内技術の発展と技術者層の形成、

(2)海外技術導入の具体的な内容、

(3)技術提携を選択した企業が技術の吸収から開発をスタートするプロセス、

をそれぞれ検討していく。

 

  1. 技術発展と技術者層の充実
    • 国内技術の発展
  • 国内技術の発展の指標として、特許出願件数を見てみると、WW1期(1915-19)と20s後半に増加率が高いことがわかり、戦間期に国内技術の発展があったと推測される。
  • その分野の内訳をみると、1912年時点では農水産、繊維、機械の割合が高かったものが、1935年には電気・化学の割合が増加し、逆転している。

→大戦間期の発明は新興の重化学工業のための電気・化学技術に集中するようになった。

  • 次に、特許権利者の日本人/外国人の割合を見てみると、外国人権利者の比率は、1912:35%、1922:45%、1935:25%と変化し、他方の日本人権利者の数は1912年から35年にかけて3倍に増加している。

→①1920sに海外技術の移転が進行し、②戦間期を通じて国内の技術開発能力が高まる傾向にあったことがわかる。

  • 今ひとつ重要な点は、法人特許の数が1912:5%→1935:25%と上昇している点。

→発明行為が個人から組織的な研究開発に変化していた。

 

  • 技術者層の充実
  • 技術発展を可能にした人的要因:企業組織における技術者層の厚みの増加。

:理工系の大卒者・高等工業卒業者数→大卒者に重点が移行。

 

  • 内田星美の統計では、大卒・高等工業卒は1910年から1920年にかけて8倍となり、かつ卒業生の就職先における民間企業の割合が高まっている

:大卒の場合、官:民=44:56 (1910)→官:民=27:73(1920)と逆転

  • 業種別の推移をみると、伝統部門(鉱山、繊維、造船、電力)への就職者の絶対数が依然として大きいものの、新興部門(金属、電機、化学、機械)との差が縮まる。

→新興重化学工業の発展が、技術者の分布を変化させた。

  • 電気・機械専攻の学卒者の数も、大卒の場合:136(1915)→578(1935)と3倍に、高等工業卒の場合:240(1915)→863(1935)と3.6倍に増加している。

→企業サイドも学卒技術者を多く採用するようになる。

 

  • 研究開発の組織性
  • 1915-37年にかけての「主要」特許の出願者を個人と組織に分けると、前者が22、後者は34となり、個人的発明よりも組織的発明の時代になっていたことが示される。

→複雑な構造を持つ技術の開発は個人だけではなく、複数の技術者の協力のもとで可能になる。発明が個人のものであった時代が終わる。

→多くの資金が投入され、研究開発の進行をマネジメントする人材が必要となった。

 

  • 外国技術の導入
    • 技術導入の概観
  • 戦間期の技術発展には、外資系の企業が大きな役割を果たした。特に重化学工業分野における大企業の過半は、何らかの形で技術導入を行っていた。
  • 自動車・電気機械では、(製品別の技術供与ではなく)包括契約・資本参加という方式が多く採用されている。

∵電気機械の場合には特許権の制約が強く、技術の開発に長い時間・コストがかかる。

(特に弱電の場合、ラングミュア特許のように、「基本特許」が成立するケースがあるため、技術契約なしで国内製造することか困難であった。)

 

  • 技術導入契約の変化
  • 東京電気とGEとの契約を事例に、(2)特許許諾の範囲、(2)技術供与の内容、(3)技術供与への対価、を中心に技術導入契約の変化を見ていく。

 

2-2-1 特許許諾の範囲

  • 1904年12月[1]の提携:白熱電灯の製造に関連した特許を、東京電気が「専用」することを認める。
  • 1907年第一追加契約:電球以外の小型重電機の製造まで拡大。
  • 1912年代に追加契約:タングステン電球の製造販売権が追加。
  • 1918年の更改協定:真空ガラス器具を芝浦製作所の承認があれば製造販売できるようになった。=真空管の権利が認められた[2]。(真空管特許の権利は芝浦製作所に属しており、間接的に東京電気の使用が認められた[3]。)

 

2-2-2 技術供与の内容

  • 1904年協定、1907年協定:①白熱電灯の製造ノウハウの提供、(2)東京電気の工場改善のためにGEから技師を派遣すること。
  • 1912年協定:(東京電気の社員はGEの)白熱電灯工場を見学し、製造事業の方法・手続きの完全な告知を受けることができると、より具体化される。また、東京電気の従業員の発明はGEに告知し、GEの資産となることが明記=東京電気の技術開発の可能性が協定に反映された[4]
  • 1918年協定:技師派遣、資料の相互提供、工場見学など12年協定と同様の内容だが、その範囲が白熱電球だけではなく、製品範囲で明記された製品の全てに拡大される。

 

2-2-3 技術供与の対価

  • 技術供与への対価の支払いは、増資による新株の一定部分をGEに無償譲渡するという方式。

←東京電気の経営者側とGEとの交渉の中で協定の部分的変更が積み重ねていった。

 

  • 技術吸収から自主開発へ
    • 技術吸収のプロセス
  • 以上のように海外企業との技術提携を結んだ企業の技術吸収プロセスは、以下のように一般化できる:
  • 契約による特許・ノウハウの使用許可(ライセンス)、(2)文書情報、図面、製造機械の輸入(情報・モノ)、(3)技術者の招聘/派遣(ヒト)、(4)輸入機械の据付・稼働、(5)国内の条件に適応するような製造ラインの調整。

⇔提携を結んでいない場合は、多額のコストをかけて模倣ベースで行うしかない。

  • 次に、提携企業の製品の国産化について、東京電気とGEとの間でなされた1917年4/5の書簡から読み取る。
  • タングステン線の問題点;
  • 東京電気は4年前〔1913〕から国内製造を要望し2年前に必要設備を注文していた(GEは許可をした)にもかかわらず到着していない。
  • 輸入タングステン線を供給していたハリソン工場の提供量は、現在の需要量に対して過小であり、かつ高価である。
  • 川崎工場の設備をハリソン工場の要求にそって改良するための輸入機械の価格が高価である。

⇔(2)GEが新技術=タングステン線生産を少量にとどめる方針は他の提携企業(ex 英国NTH、カナディアン会社)にも共通しており、GEの基本方針であるとの返答。(3)タングステン線の価格についても、GEが投じた多額の研究開発費を含んでいるので原価に比例せず、設備の高価格も「死活問題」ではないと判断しているとの返答。

⇔国内製造の本格化とコスト削減の必要性を感じていた東京電気との摩擦。

  • この事例から導かれる2つの論点:
  • WW1を契機に、経営者に国産化の重要性を認識させた。
  • タングステン線の国産化に対する消極性は、本社=GEの経営方針によるもの。

=国際分業の論理で世界的な子会社ネットワークを管理運営するGE/国際分業を打ち破る日本経済の成長性を認識し、長期的な視点から国産化を主張する東京電気。

→契約書には1912年にタングステン線の製造が認めていたにもかかわらず、実際の方針は許諾とは別の経営判断によっており[5]、国内製造を実現するためには日本経営者の意思と準備が必要だった。

 

  • 提携企業の自主的製品開発
  • 独自の製品開発への指向は、WEと提携した日本電気の場合にも現れている。

1924年逓信省電気試験所から日本電気に入社した丹波保次郎(にわやすじろう)は、「WE社の作っていないものを作りたい」と望んで、独自の研究開発をスタートさせた。

  • 1928年に小林正次とNE式写真伝送装置を開発。アイデアを思いついてのは1926年の小林。オシログラフの振動子を使って電流の強さを光の明るさに変換することを考案。

←若手技術者層の厚みと、研究開発の組織性。

  • 提携企業も海外企業への技術依存から脱却するようとする指向をもち、独自の技術開発に取り組むようになった。

 

  • 企業研究所の発展
  • 1920sには企業において研究開発組織を設ける例が多く見られ、1923年末には162の民間の研究機関があった。そのうちの88は企業研究所(事業会社の経営による研究所)である。
  • 東京電気:1912年に実験室が設置、1914年に技術課から独立し、1918年に研究所となる。実験室の当初の目的=電球材料の研究。関東大震災後には、真空管の研究なども進められる。
  • 1921年に所長の新庄が亡くなり、山口喜三郎が所長に就任。基礎研究だけではなく、応用開発を重視する思想を主張。

GEの技術に基づきそれを消化吸収しながら、国内市場に適合的な製品開発を行う体制ができた

⇔GEは1929年に至り、更新契約でGEは東京電気の求めに応じて「研究所」を援助することが明記された。=東京電気が独自の研究開発機能を持つことを正式に認められた。

 

おわりに

  • 本稿で明らかにしたこと:

(1)1920s後半の電気機械企業においては、大卒・高等工業卒の技術者層の厚みがまし、企業に定着した技術者による組織的研究が行われる条件が整ってきた。

(2)提携企業においては提携先の管理運営から抜け出し、自身で技術開発を進める指向が強くなってきた。

→経営者に技術開発の構想力が備わり、技術開発をスムーズにするような研究開発組織が必要となった=「組織能力[6]

 

[1] 1905年と書かれていることが多い記憶がある。

[2] 契約書の原文は”Vacuum Glass Devices”であり、X線管が含まれることは書かれているが、いわゆるラングミュアのプライオトロンが含まれることは契約書には明記されていない。実際に18年提携で真空管が含まれたのかどうかは、別の資料と付き合わせて確認する必要がある。

[3] 真空管製造の特許が芝浦製作所に属していたという話は初耳である。要調査。

[4] 同年に東京電気に「研究所」が設置されている。この契約との因果関係は不明だが、東京電気による能動的な技術開発の促進の流れの一環とみなすことも可能だろう。

[5] そうだとすれば、1918年協定で「真空ガラスバルブ」の製造販売権が含まれていたからといって、実際の許諾が認められるのはもっと後であった可能性もある。いずれにせよ、契約書だけで判断することには注意が必要であろう。

[6] これはおそらく経営学の専門用語だと思われるが、科学技術史的にも示唆に富む指摘である。研究開発が個人の時代から集団の時代になり、企業や軍に「研究所」が設立され、組織的な研究・開発が行われるようになると、その活動全体を効果的にコーディネートする人物が必要になる。Ex: GEの研究所所長のホイットニー。

=自分自身は研究を行うことは稀だが、メンバーの才能を熟知し、研究進捗を把握・管理し、研究の重要性を外部に宣伝し予算を取るといったマネージャー的な人物。

→研究マネージャーも、ある種の「科学者・技術者」なのである。

(これは、ラトゥールがScience in Action のInsider’s outの章で議論している、「どこまでが科学者なのか?」という問いにも関係している。要するに、「大学に所属する科学者」は「科学者」のうちのごく一部でしかないのである。)