内田星美 「技術政策の歴史」、中岡哲郎・石井正・内田星美『近代日本の技術と技術政策』(国際連合大学、1986年)、第3章。
- 総論
- 本稿:幕末から昭和戦時期直前までの、日本政府の産業技術政策の推移を要約するもの。
- 日本の経済発展は政府主導型といわれ、低開発国として出発しながら世界有数の高度経済大国となるまでの発展過程において果たした政府の役割には注目されることもあるが、経済発展・技術的進歩は民間人(技術者・発明家)の活力によるところも大きい。
∵技術政策は長期的展望に基づいたものではなく、各官庁の政策の間に整合性があったわけでもない。また、政策の対象から除外されたにもかかわらず技術進歩が見られることも少なくない。
- 明治以来、一貫した総合的な技術政策思想があって、個々の施策はその部分的適用であったと考えることはできない。むしろ、各時期において、国防・経済・教育に対する政策を立てようとするときに、技術の問題が避けて通ることができない場合に必要に応じて技術的施策が立案された。
- 政府の技術政策:
- 現業部門:それ自体が産業の一つの部分を形成するもの。Ex 軍隊、国有工場、国有鉄道、通信機関、国立学校。
- 非現業部門:行政官庁。監督・指導・奨励・禁止などを通じて、民間企業や国民に影響を与えるもの。法令の運用を主とする。
- (1)→その部門=政府セクターの技術向上を目的とする。
(2)→民間セクターの技術向上。
政府セクターと民間セクターは、以下のように密接に関係している。
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- 幕末
2-1 総説
- 新政府のとった技術政策の原型は、それ以前の幕府・雄藩の政策の中に見出されるので、まずは幕末の洋式技術導入の政策の起源を追求する必要がある。
2-2 反射炉の築造と洋船の建造
- 鎖国政策は、西洋技術知識を排除するものではなく、その受け入れを長崎に限定しただけであり、幕府はオランダから理化学機器を輸入することに熱心だった。その意味で、鎖国時代=一種の技術情報の独占政策であったとも言える。
- しかし、幕末の技術政策はそれ以前の政策とは異なり、国際情勢の緊迫≒外国船の脅威から緊急に取り上げられた国防政策の一環であり、従来の伝統技術とは関係なく欧米技術を導入しようとする運動であった。
- 洋式軍事技術の模倣→洋式砲台の建設。∵江戸時代に軍事力は弱体化していた。
- 水戸、佐賀、鹿児島の諸藩が洋式技術による大砲製造を担当。←洋書から得た知識のみに基づく独自の技術開発。→反射炉=日本初の洋式工業設備。先行したのは佐賀藩で、1852年に精錬方を設立。次いで、1853年には韮山反射炉の建設が開始。
- 今ひとつの西洋軍事技術は、洋式船。書物だけに基づくことの限界。
2-3 西洋技術伝習の開始
2-4 外国留学の端緒
- 技術習得のために留学生を外国に派遣する政策の開始。
ex:1863年「長州ファイブ」→明治維新後の新政府の技術政策の立案者となる。
2-5 蕃書調所
- 国立の理工研究教育機関:蕃書調所;洋書翻訳。
→開成所となり新政府へ移管。帝国大学へ繋がっていく。
3 明治初期
3-1 総説–新政府と洋化政策
- 外国技術導入政策は新政府によって強力に推進される。憲法発布・国会開設までの20年間ほどは、太政官が独占的に行政機構を作っていった。その目標は、西欧先進国と同じ政治・経済・軍事の体制をもつ独立国を作ること。
←機械化された産業技術の導入もその一環で行われた。
- 急速に外国技術を導入するために取られた手段=お雇い外国人制度。
:不要となった外人から契約を解除していき、経営に実態を日本側の技術官僚にとりもどすという方針が取られていた。
- ただし、新政府が初めから総合的な技術導入政策を持っていたとは言い難い。むしろ、開港の結果、欧米の商船や東京在住の外交官が、活動の便宜のために灯台や電信などを要求し、必然的に個々の技術導入をもたらした。
3-2 兵器技術の導入
- 1872年徴兵制:武士から洋式軍隊へ。兵部省から陸海軍へ。
:各種火器、艦艇、機械設備。
→①いかなる兵器体系を採用するかを決める。
②それに対応した軍隊を組織する。
③兵器の補給体制を作る。
④兵器技術官を養成する。
3-2-1 陸軍
- フランス式に編成。
3-2-2 海軍
- 1870年 海軍兵学寮
- 1873年に英国人34人を招聘し、教育に当たらせた。→英国海軍の伝統を継承するようになる。(ex 兵科>機関科の伝統まで輸入。)
- 鉄製の艦隊も英国から輸入する方針。
- 主砲については、ドイツから輸入。
3-4 工部省の事業
- 工部省(1870-85)=明治初年の技術政策を担う最も重要な現業官庁。
- 全産業を網羅した壮大な構想。
- 工部省は初めから教育制度(大学校)も準備していた。
- 1885年に民間払い下げされたことは、国力不足の失策であったとも言えるが、技術政策の観点からみれば、外国技術の集中的導入に成功し、その後の官民部門への技術の普及という間接的効果は大きかった。
3-5 殖産興業政策
=民間の産業技術に対して政府が間接援助する非現業官庁。
3-6 開拓使の技術政策
3-7 技術教育機関の発祥と留学
- 1872年学制=全体を統括する教育システム。
- 海外留学生派遣制度。
4 明治後期
4-1 総説
→非現業部門の官庁においては、試験・教育機関の設置、法律の立案を通じて、間接的に民間産業技術の発展・普及を助長することになる。
- 政策について省庁間(M22: 内務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、文部省、農商務省、逓信省、鉄道局)で協議が行われることはほとんどなく(分権的運営)、政府として統一的な技術政策を立てるということはなかった。
- 日清・日露前後の増税による政府財政は、軍事技術の進歩に追随するために惜しみなく費やされ、陸海軍の兵備増強に重点が置かれたことが特徴。
4-2 技術教育制度の整備
- 工部大学校が帝国大学に統合され、工科大学を形成。総合大学の中に理学部と並んで工学部を置く。
- 1883年から、海軍が高級技術官を部内で教育することを断念し、文部省と協定して工科大学委託学制制度をつくり、卒業生を技術士官として任用するようになる。
- 高等工業学校出身者は、広範囲な民間産業に広がり、全国的な技術水準の向上に貢献した。
4-3 内務省の建設技術
- 土木技術の革新の中心。
4-4 農商務省の技術政策
4-5 逓信省の技術活動
4-6 鉄道
4-7 陸軍
4-8 海軍
4-9 製鉄所をめぐる技術政策
5 大正・昭和初期
5-1 総説
- 工業教育の確立による学卒技術者供給体制ができていたことなどを背景に、民間の技術力・経済的能力が相当に発達してくる。
→技術政策は、民間の潜在的技術力を活用することを重視し始める。
- 政治的状態の特徴:(1)政党精力の強化; 1918年原内閣=商工会議所・各種産業団体に代表される資本家・地主を背後に持つ。→産業政策も民間産業保護の色合いを持たざるを得ない。(2)軍部の勢力。
- 一流の軍事大国を目指す軍部の目標と、一流の工業国となろうとする産業界=政党の目標は対立しない。むしろ互いに認め合っていた。
- WW1→輸入途絶→重化学工業の国産化が目標に掲げられるようになる。。産業保護と国際収支均衡との両面から、国産技術に対する援助・合理化を政策目標として掲げられる。
5-2 工業教育の拡大
5-3 軍装備の近代化
- 1907年「国防基本方針」:海軍はアメリカを仮想的とする。
- WW1の影響:
- 総力戦の準備;1918年軍需工業動員法、軍需省(国勢院)→緊縮財政下でしばらく廃止され、1927年に資源局として復活。潜在的軍事力としての民間工業の効力育成という考えを確立。
- 軍の近代化;装備の近代化という要素が軍備方針の中に付け加わるようになるが、組織原理(機関科をはじめとする技術士官が近代化を推進しようとしても、これを実現するのは兵科出身の首脳部)のために、首脳部に近代化に理解のある少数の幹部が保守層と妥協しつつ部分的に近代化部門を付加するという形を取らざるをえなかった。
- 1927年 航空本部の設置。航空機行政を艦政本部から分離。
5-4 国鉄と通信放送
5-5 国産化技術の推奨
⇔陸海軍、その他の現業官庁も国産化という方向で民間企業の技術に支援を与えていた[1]。
- 基礎工業(key industry):一国の産業を高度化する上で、要所を占める少数の生産材・資本財を重点的に育成するという発想。(ex 鉄鋼、窒素肥料、工作機械工業、、)
- これらの産業を興した企業が十分に生産技術を開発し終えるまで、一定期間政府による保護を与えようとすること=国産化政策の手段。
5-5-1 生産調査会の国産推奨策
・工業教育の奨励
・官公立の工業試験所で有望な工業品の製造方法を研究する・
・発明を奨励する
・規格統一の調査機関を設置[2]
・新規事業の営業免税期間を延長。
・技術者の海外派遣・視察の推奨。
・官業が民業を圧迫しないこと
・官庁用は国産品を使用すること。
・新規・試験中の向上には相当期間の補助の道を開くこと。
- 1917年発明奨励費交付規則
5-5-2 化学工業調査会と染料医薬品保護法
5-5-3 軍用自動車補助法
5-5-4 官需の国産品優先
- 陸海軍、逓信省などでは、その前後からそれぞれ民間企業を育成し、購入品[3]の国産化を推進してきた。
- 海軍:1912年に「金剛」級の戦艦の建造にあたって、英国の設計図面のコピーを、三菱造船所・川崎造船所に渡して制作させる。
→海軍の技官と民間の技師と間の有形無形の交流が行われていた。海軍としては、輸入品からの脱却にあたり、民間造船所を海軍工廠の予備として育成していた。
- 商工省:国産新興委員会(1926年)、国産愛用運動の推進、官庁用品の国産使用の推進。
- 産業合理局の中に「国産品愛用委員会」を設置。
5-5-5 民間の研究奨励
- 1921年軍需工業研究奨励金
5-6 技術に関する基礎的制度の整備
・工業規格の統一:1921年に農商務省に「工業規格統一委員会」が設置。日本工業規格(JES)を制定していく。
・国立研究機関の増強:試験から研究へ
・理化学研究所の設立
[1] 商工省の「国産化」と軍(海軍)の「国産化」政策(兵器独立政策)には、どういった内容的な違いがあり、この2つの動きはどのように重なっていたのか?
重なりの仕方にはいろいろなパターンがありうると考えられる。
商工省は非現業部門であるが、海軍造兵廠も大正末期以降は製品を全て内製していたわけではないので、現業部門とは言い難い側面がある。その意味では政策の方法は類似していたかもしれない。ただし、両者の国産化の目標は完全に一致するものだったのか?
[3] 購入品も、伝統技術(繊維、建築、セメントなど)と新興技術(化学繊維、航空機、通信)とでかなり事情が異なると思われる。