yokoken002's note

Reserch review on the history of technology and science

内田、1988年

内田星美「大正中期民間企業の技術者分布」『経営史学』23(1)(1988)

ここからDL可。

 

まえがき

  • 本稿の目的:1910–20年にかけての大企業経営の成長と、重化学工業への多角化・新規企業化が、企業内の技術者雇用にいかに反映されているかを考察すること。

 

  1. 産業・企業別の技術者分布 - 官民・産業別の分布
  • 1910年と1920年の、大卒・高工卒の総数が8倍に増加。大卒・高工卒の比率は35:65、増加率は高工がやや上回る。
  • 重要な変化は、官:民=45:55→27:73と逆転していること。=この時期の技術者雇用が圧倒的に民間主体だった。←WW1中の民間産業の膨張に対する顕著な現象。
  • 分野:上位は高山、繊維、造船、電力であることは変わりないが、金属、電気、化学、機械といった振興産業との差が縮まる。←WW1の重化学工業の勃興と産業構造の変化。
  • さらに大卒者がこうした振興部門に進出していることも特徴。

 

  • 民間主要企業の技術者分布

 

 

  • 重化学工業部門の企業18社が新設。

←この分野の技術者雇用の拡大が、企業の新設によって惹起された。

  • 新設大企業は、振興財閥の形成を意図した企業化が主流。
  • 大卒に限れば、依然として4大財閥に属する技術者の割合が30%と高い。

 

  1. 年功階層化の進展
  • 同一企業内で技術者が増加する要因:
  • 事業所の増加
  • 職能分化にともなう複数学科卒業生の採用、
  • 機構分化;内部に技術的な性格の異なる諸工程を含み、職場別に技術者の配置を要する。
  • 年々の新卒採用によって生じる年功階層形成(≒世代交代と新卒者の定年採用);最大の理由
  • 昭和年代には定着した学科別新卒採用計画、定年制による新陳代謝がいつ頃から始まったのか?

⇔大正中期までには、ほとんどの大企業で大卒・高工卒の移動=中間採用が相当の規模で行われていた。

  • 1920年時点での主要企業の大卒技術者を卒業年別に整理すると次の表。(ただし、ここから中途採用の数を加減した数=新卒者の数となる。)

 

 

  • 卒業年度の技術者が完全に揃っているのは、川崎造船の機械工学科のみ。
  • 最近15年に絞ると、三井物産三井鉱山、三菱鉱業、三菱造船、川崎造船などが、もれなく揃えている。

⇔高田商会、東京電気などでは年度ごとにばらつきが見られる。

技術者の年功階層化が三井、川崎などでは早くから形成さえており、この階層を維持・継続するために、毎年の卒業者を雇用するようになっていたと考えられる。

⇔東京電気などでは、急に技術者を増やしたために、卒業年次を平均的に揃える配慮を行う余裕がなかった

  • 疑問:
  • 技術者の数の増加に応じた専門技術的業務の増加はあり得たのか?
  • 卒業後10年以上の技術者を多数抱えている企業において、新卒者のポストが十分にあったのか?

重化学工業部門への新規事業化の潮流の中で解決されていったと推測される。

 

 

 

  1. トップマネジメントにおける技術者
  • 各企業におけるトップマネジメント技術者=取締役、支配人、技師長、工務部長、工場長の卒業年次を列挙。

:(1)大部分の企業のトップに昇った技術者の卒業年次は明治20sから30sのはじめ

  • 彼らの多くは株式会社の役員に選ばれてはいない。トップマネジメント技術者は社内の実権は大きかったが、資本家=役員から見れば使用人であり、技術者の社会的地位は高くなかった
  • トップ技術者が次のランク技術者よりも卒業年次は早いかどうか?

→おおむねそう。ただし、三菱鉱業、古河鉱業では逆転が見られる。

 

 

 

  1. 重化学部門新設企業への技術者移転
  • 新事業は新卒技術者の採用のみでは成功しない。

→すでに他の場所で経験を積んだ技術者の移籍(≒中途採用)によって可能になっている。

  • 新設企業に対する技術者の供給源:
  • 同じ財閥系企業、同企業の既存部門からの移転
  • 官庁技術者:農商務省海軍工廠の技術者など[1]
  • 先発の民間企業。

 

  1. 企業内研究の開始と理学部卒業者の雇用
  • 1920年度においては、大学の理学部物理学科・化学科出身者が企業に採用されていることがわかる。彼らは大正年代に卒業した新進の化学者であり、多くは企業内研究所へ雇用されている。=明治には見られない新現象。
  • 明治末から大正期にかけて、民間紀要においても試験・研究のための部署が設けられる。Ex 満鉄中央試験所、芝浦製作所発達研究室(1915年)、東京電気マツダ研究所(1918年)
  • これらの機関の発足に際しては、社内の工学部出身者に加えて、最新の基礎科学研究の素養のある理学部の卒業生を必要とされ、彼らが採用されている。

1920年時点において、26社中、多くの企業では理学部出身者はは1,2名だが、東京電気マツダ研究所は12名と突出している。

  • 大正初期の理学部出身者の雇用は、まだ民間企業開発の萌芽的段階にしかすぎないが、その後の産業技術レベル向上の重要な布石であった。

 

 

[1] 海軍技術者(技術研究所、艦政本部の将校、技師)の中には、民間企業へ転職した人物が多数存在するので、軍民セクターでの技術者の流出がどのように生じていたのか(また、それはなぜなのか)を統計的に調べた論文が待たれる。