yokoken002's note

Reserch review on the history of technology and science

中岡、2006年

中岡哲郎『日本近代技術の形成- <伝統>と<近代>のダイナミクス』(朝日新聞社、2006年)、序章・終章

 

 著者(=中岡)が学生だった頃(1950s)においては、イギリスが口火を切った西欧の産業革命を精密に研究し、それとの比較において日本における工業化過程の歪みや後進性の残存、植民地性などを指摘する議論が主流だった。それに対して本書は、日本の工業化過程を「歪んだ工業化」とみなすのではなく、西欧に遅れて工業化する国にとっての工業化とは、在来経済・社会に根差す内部要素と、西欧工業経済の外部要素とが相互に絡み合った混血型という独自の構造を持つということを主張するものである。より詳しくいうと、日本にとっての「後発工業化」とは、「西欧型工業化を目指した政府・財界人・知識人の酒豪する機械制第工業育成の流れと、江戸時代に成熟した手工業的在来産業がヨーロッパ工業経済に反応して開始した発展の流れ」とがダイナミックに絡み合って作り出した発展であったということである。第一章から第三章までは、著者がメキシコの大学院で行った講義が収録され、第四章から七章までは、明治末年までに見られた在来技術と外来技術との間に作り出されたダイナミックな発展の事例研究が収められる。そして最後の八章では、「日本はなぜ『低開発の開発』」の道を回避できたかという問いに応える語りで本書の議論がまとめられる。

 

終章 日本近代技術の形成

終-1 日本はなぜ「低開発の開発」の道を免れたか?

  • 明治日本の工業化の2つの流れ:
  • 江戸時代に形成された在来産業が、ヨーロッパ工業経済の製品を在来の手工業的分業の内部に、素材や器械として取り込んで新しく開始した発展(ex: 織物業)
  • ヨーロッパ工業経済からの移植産業が日本の市場条件に適応して開始した発展(ex: 紡績、鉄鋼、造船)

←どちらも在来的な要素と西洋の要素との間における相互作用の中から矛盾が生じ、それを克服しようとする努力を通じて、ダイナミックな発展が維持された。

  • 多くの学者は、1880s後半から1910年頃までを「日本の産業革命」期として論じる。

←1910年頃に、「日本を近代国家に」し、「近代技術を習得して、十九世紀後半の西欧国家に匹敵する産業基盤と社会制度をつくる」という目標が一定の成果を見た。

 

  • 日本はなぜ「低開発の開発」の道を避けることができたのか? - 4つの理由
  • 明治維新=西欧工業経済の衝撃を政治革命に転化させ、植民地化の危機を免れた。

:薩摩、長州、佐賀の武士らが、最初に欧州工業経済の前線に反応し、彼らが攘夷を倒幕に切り替えて政治革命に成功し、西欧型国民国家の形成をめざす主体を作り上げた。→工業化を軸とした新政府の政策によって、機械制大工業が主導された。

  • 在来産業の発展:19C後半の欧州工業体系を日本に移植する試み=(1)は、大規模な投資を必要とする貧乏国の経済条件を無視したものであり、かつ在来の経済に適合するまでに10年以上かかる。その間に日本経済を支えていたのは、在来産業の発展だった(ex: 1886年において、製造業の生産額の95%は在来部門)。

←なぜ明治初期に在来産業が発展できたか?

  1. 三大都市を中心に、手工業による商品生産が高度な展開を遂げていた。(ex 金属精錬、木造・石造建築、陶器・磁器、織物、和紙、木造船、食品など。)
  2. 農業の小規模労働集約性、水田稲作農業の持つ季節性

→手工業的商品生産が、農村農閑期の副業によって支えられる構造があった

  • 江戸時代における在来産業の発展を阻害していた要因:
  1. 鎖国による国際交流のとぜつ
  2. 幕藩体制による生産/消費の統制

→維新後、手工業的分業のなかに工業製品や西欧器械を取り込むことで、明治の「産業革命」の一翼を担う産業発展の流れが作られた

←工場ではなく、家内作業。

  • 移植産業と紡績業の間に相互補完性があったこと

:在来織物業が輸入紡績糸を利用し発展したことで引き起こされた輸入超過が、移植紡績業の必要性を誘発した。

 

終-2 日本近代技術の到達点

終-2-0

  • ここまで使ってきた「近代技術」という語=19C後半の西欧産業技術=工業

←そもそも西欧の「近代」に、技術についてどんな変化があったのか?

 

  • (1)産業革命期の英国で、シヴィル・エンジニア(civil engineer, 非軍事技術者)を名乗る専門職業集団が出現し、彼らが産業の中で技術の指揮をとるようになったこと。

 

  • (2)先行するイギリスでは協会(institution, society)の中で資格認定・技術錬磨を行い、英国に遅れて工業化を目指した国々では、大学相当の学校で技術者養成を行うようになったこと。

(※技術者は科学者に先行して職業専門化を遂げており、18C後半から19C前半にかけて科学と技術が融合して「科学技術」となったわけではない。科学者と技術者は異なる社会的機能を持つ専門職業集団として制度化されてきた。)

 

 

(3)科学研究(電気、電磁波、有機合成etc)が先行し、技術的応用と新産業の発展がそれに続く分野として出現した。=科学研究が産業の前線の変化を起こす(科学的解明が新技術の誕生を加速する。)=研究開発の出現

 

終-2-1 社会集団としての技術者の形成とその教育

  • 日本におけるエンジニア集団の形成過程:

蘭学者が西欧流の軍備を日本で実現すべく努力し失敗する。←軍事技術から出発 (※西欧でも同様)

→成果として、

・技術習得制度(佐賀藩の精錬方)

・洋学学習制度の整備

・技術導入(長崎海軍伝習所)

・密航による調査と留学

・近代国家の中で産業・技術の果たす役割についての認識

・長州ファイブら工業化リーダー

・留学帰りのエンジニア・技術者企業家

(←長州ファイブの受け入れ先は、ユニバーシティーカレッジオブロンドン←このころの欧米で技術者育成大学が普及中だったので、日本人にとって留学がとりあえず役に立つエンジニアの育成の最適な方法となった。)

⇄国内のエンジニア養成システムでは、修技校など、事業の当面の必要を満たせる技手養成学校が作られていた。

工部大学校、東京大学理学部→帝国大学工科大学、東京職工学校の総数(1890年)はわずか393人。学卒技術者が産業技術を担う時代はもっと後。

→明治中期までの発展を支えた技術者集団は、(1)初期の政府事業の経験と修技校で育った技術者、(2)外国人経営の工場・造船所で技術を身につけた技能者、(3)民間工場の経営を通じて技術者となった人々=つまり、非学卒者

→こうした学歴とは無縁の技術者集団の上層に、中期から工部大学校、東京大学帝国大学工科大学を卒業した学生が少しずつ入り込み、やがて学卒者が多数となっていくのが、日本における技術者集団形成の特徴。

  • 一方、近代技術のエンジニアが「国家の制度として高等教育で養成される」点に注目すると、その開始は工部大学校(M6年~)だった。←実践重視
  • しかし、ダイヤーの教育がうまくいったことで、日本は工業化に成功したと結論することはできない。

∵工部大学校は短期の存在だった。1886年帝国大学工科大学に統合され、実践重視のポリシーは大幅に縮小した。

  • 東京大学:中学校→高等中学校→帝国大学→留学という選抜の階梯をもち、外国語教育に多くの時間をさき、教えるのは日本人であるという教育体系。士族の優勢。

←エンジニア養成学校=工科大学は、こうした帝国大学の中に「分科大学」として組み込まれた。

  • 工部大学校の就学時間6年から3年間に短縮する処置として、実地学習の大幅縮小は必然的だった。確かに、実地が減り教科学習中心になったのは事実であるが、それでも工科大学は3年次には一学期を実習に当てて卒論作成と組み合わせられるなど、実習が強化されている側面もあった。
  • 理論学習の純化→engineeringが工学と訳されるように。
  • 一方の東京職工学校は、産業に技術者を供給する学校になる。実質的に日本の民間産業の技術者の需要に応えていたのは高等工業だった。
  • 日本の技術者集団形成の特色=「明治初期の産業発展の中で、初期工場の現場経験と移転技術と在来技術の結合に基づいた、たぶんに経験主義的な技術者、技能者集団が形成された後、頂点の大工場の部分から、外国の原書の基づく工学教育を受けた学卒技術者が、時代とともに数を増しながら中規模工場まで広がっていく」

 

終-2-2 工学士たちをとおして見た日本近代技術

2-2-3 電気工学

  • 日本の電気技術は電信事業とともに開始:

1869年に東京-横浜間、1874年に青森-東京-長崎を結ぶ幹線が完成し、以後全国網が形成される。

設備の運営維持のための技術者集団、電信機製造のための電気機械工場がスタート。その頂点にエアトンを教授とする工部大学校電信学科が来るという形で、明治の最初の10年間に電信を中心にして電気工学が形成される。

  • その間、欧米では電信から電話、白熱電球、無線通信と急速に発展。

←この時期の特徴は、科学研究が先行しその後を技術が追う研究開発型。その代表が電気・通信分野。

→誕生したばかりのエンジニアらは、この動向を小さなタイムラグで追尾していった。

  • 日本で最初に白熱電灯が用いられたのは、1884年(エジソンによる発明の5年後)。

1887年から東京電灯が電力供給と結びついた電灯事業を開始。←工部大学校電気学科卒のスタッフ(藤岡、中野ら)が指導・設計した。

→研究開発的な性格 (ex 白熱電球国産化)

→9ヶ月で最初の完成品ができるものの、2時間持たない。京都まで輸送したとき、振動でフィラメントが全て切れていたという始末。白熱電球国産化に失敗し、1905年にGEの子会社に。

←欧米で長い歴史を経てすでに完成された技術をいかに日本の条件に合うように移転するかという試みではなく、欧米で現在進行中の新技術開発を、数年のタイムラグで追いかける研究開発だった。

→電球技術に決着をもたらしたのは、GEのCoolidgeにより引線タングステンフィラメント(ductile tungsten filament, 1908)と、Langmuirによる窒素封入電球(1908年)。

→技術格差はさらに拡大。←開発能力の差。

電気・通信は、「特許権が排他権=独占権として決定的な力を発揮する」、巨大独占企業の成立しやすい産業。

→1879年にはじめて電気工学士を送り出した日本に、この発展を生み出した企業間競争に参入する可能性そのものが最初からなかった

←米国留学経験を持つ彼の合理的判断。

 

終-2-2 技術とナショナリズム – 戦争と敗北

  • 1910s前後=日本が日英同盟に支えられて日露戦争に勝利し、WW1で漁夫の利を得て一段と飛躍し、多くの日本人はついに世界の先進国に比肩できるようになったという意識を持った時期。=日本近代技術の一つの到達点。

⇄日本が19C末の産業構造で欧米との技術格差を縮めようとしている間に、欧米では電気・通信、合成化学といった文太で次々と巨大企業を生み出す新段階に入っていた

→実際には、比肩したという意識は論外。三つの問題点:

  • 日本技術に浸透した外国依存体質 (ライセンス契約)
  • 互換性生産の遅れ
  • 組織的研究開発能力の弱さ

→米国との技術格差は明白であったにもかかわらず、一連の対外戦争の果てにアメリカとの戦争に至る。

  • なぜ日本の指導者[1]は、日本技術の到達点を見誤ったのか?

ナショナリズムで嵩上げされた「日本軍事技術の優秀性」への確信

八八艦隊計画 (日露戦争時は、英国から輸入した戦艦だったという劣等感→1920年に呉海軍工廠で戦艦長門が完成)

維新の頃は、日本の植民地化を防ぎ工業化を目指す政府を形成し、かつ国民の主体的な工業化への参加を引き出すために正の役割を果たした諸要素が、1910-20sに少しずつ負の役割を果たすものに転化していった[2]

(cf 文明の驕り)

  • 第一次世界大戦:(1)輸入途絶という経験→日本が資源と基礎産業に欠けているという認識

(2)陸海軍の研究開発の開始→日本光学、航空機

→自己完結した産業圏をつくることは資源小国である日本列島の枠内では達成不可能で、必然的に隣接する周辺国の膨張主義とそこでの資源開発の推進を加速した。それと並行して、「不足資源の科学的補填」=科学主義が主張されるようになる。

  • 宮本武之輔の「技術立国論」:日本的性格の技術を育てなければならない。

戦間期は、日本が国際包囲網に堪える自己完結した経済圏の確立という幻想に捉えられ、明治維新以来、日本の順調な発展を支えてきた諸要素を見失い、ナチスドイツに学んだ技術の国家管理と科学技術動員による欧米との格差の克服というもう一つの幻想を育ててきた時代だった。

→産業と技術の自然な相互作用(産業の発展が生み出す矛盾を技術が解決し新段階が開ける)を見失わせ、強引な技術の国家管理によって産業発展の芽を摘む。

→アジアには諸国の独立した経済が貿易を通じて相補的影響を与えながら成長する経済発展があり、日本もその中にいた。

→日本の侵略によって、徐々に分断されていった。

  • 八八艦隊計画のころから始まる極端な軍備の拡張が、2つの流れのダイナミックな相補関係を特徴とする、日本自身の経済発展の活力を徐々に奪っていった。=経済の自然な活力をもつ部分を解体して、技術の国家管理計画に押し込む。
  • →戦後に、日本産業がかつてもっていた技術的バランスに支えられた活力を回復させた。日本の「奇跡」は、奇跡ではなく自然なこと。

 

[1] 仮に日米との技術格差を明確に認識できていたとして、日米戦争を避けることができたのだろうか。技術の次元と政治・外交の次元は別なのではないか。

[2] このあたりの議論が、『展開』で膨らませられるのか。