yokoken002's note

Reserch review on the history of technology and science

William Tsutsui, Manufacturing Ideology, Chapter 2

Chapter 2 The Rationalization Movement and Scientific Management, 1927–1937 (pp.58–89)

 

  • 従来の議論:日本における能率化運動の絶頂は、1923年から26年にかけて。それ以降の経済不況の時代になるにつれて、テイラー主義は経営上の関心にとって周辺化していき、科学的管理法は産業合理化運動にとってかわったり、吸収されたりした。
  • ⇔本章の議論:テイラー主義のメッセージは、1920-30sにおいて周辺化・亜流化したわけではない。むしろ、科学的管理法は日本において新たな関心が持たれ、その哲学は拡散し、推進機関も拡大した。=テイラー主義は恐慌時代に否定されたのではなく、再主張された。

←大正時代の15年間は、産業合理化運動の知的・思想的基盤を築いた。

 

2-1 The Meanings of Rationalization

  • 合理化の考えは急速に広まったわけではない。1920s半までは、産業合理化はそこまで注目されていなかった。

→1927年の国際経済会議が触媒となって、雑誌上に「合理化」というワードが露出し始める。

→昭和恐慌によって、一層注目されるように。

Ex 吉野信次:1929年に東京世界工学会で合理化に関する大規模な討議が行われるまで、政府の関心は薄かった。

→1930年頃には「産業合理化」という言葉が一般化し、濱口内閣は「臨時産業合理局」を設置した(1930年)。

  • 従来、産業合理化の輸入先はドイツであると言われてきたが、実際には米国の合理化もドイツと同じくらい日本の概念に影響を与えた。

∵産業と社会の進歩の基準として、アメリカが語られていた。

  • 平井康太郎の図式:アメリカ式;企業や工場におけるミクロな改革を志向。

ドイツ式:産業や国の経済レベルでのマクロな改革を志向。

→日本はこの分流にあり、両者のハイブリッドを目指す。

  • しかし、産業合理化=ドイツポリシー(産業レベル)+米国ポリシー(企業レベル)という式は限界点もある。

→実際には、日本はフーバーの官僚的政策、官民協力のモデルにも注目していた。(米国=マクロという側面もある。)

  • 確かに合理化は海外から輸入された新概念であったが、それは、日本の国内の強固な基盤の上に建てられたことも事実。1930sまでには、効率化運動が始めってからすでに20年近くが経過しており、修正版テイラー主義のメッセージも産業界に普及していた。

=当初から、「合理化」というコンセプトは、企業経営に必須のものであった。

合理化は新規で輸入された概念であると同時に、概念的には馴染みのあるものでもあった

→実際、合理化に関する日本の初期の論者は、必ず科学的管理法と「産業合理化」の親和性を強調していた。

  • 他方で、産業合理化が何を意味し、どのように実践されるかについては、コンセンサスが存在しなかった。(内実・具体的な方法の曖昧さ)

→10人に聞けば、10通りの答えが返ってくる状況。

  • 日本における合理化の概念:前提、理論、政策の一連の要素として理解するのが良い。

→大正以来の科学的管理法の思想的・方法論的遺産の上に成り立つもの。

「科学」:客観性、最高の能率、伝統や経験則に対する「事実」の優位性。

→「科学性」は、合理化政策の青写真としてではなく、イデオロギーの「お守り(talisman[1])」として扱われていた。

  • 合理化運動の推進者らは、テイラー主義者が用いた「科学」という概念を強化した。

:科学⇔経済的個人主義・利己主義・自己中心主義。

→「見えざる手」は神話に過ぎない。

合理化の追求には「見える手」が必要である

  • しかし、最適な経済調整をどう達成させるか、科学の応用と「利己主義」の抑制を誰が指示するのか、といった問題の答えは出ていなかった。

=「統制」という言葉には当初から緊張があった。

→争点=国家の役割、民間産業への国家の介入の程度

アメリカモデル=促進するモデル

ドイツモデル=指導するモデル。岸信介が影響を受けた発想。

→いずれにしても、運動の成功には産業合理化における政府の積極的な役割が想定されるという信念は、日本の合理化の概念における基本定な公理であった。

  • 「誰が合理化を進めるか」という問題に比較して、合理化の範囲・内容については、ほとんど論争されていない。

→統合だけでは、効率性が実現できないことは認識されており、近代的な経営手法の適用を促進することが合理化の中心要素となっていく。

  • 1920sを通じて、フォーディズムが世界中の産業、官僚、技術者の想像力を捉えていた。それは、効率性、技術的前進、科学の力のシンボルだった。

=組み立てラインの機械化は、科学的管理法の論理と方法論を劇的に拡張するものだった。

⇔しかし、機械化のレベルや資本投機のレベルが、そこまで日本では成熟していない。

加えて、恐慌下での低迷する需要の状況で大量生産のシステムを導入しても合理性がなかった

  • そこで、現実可能な経済回復の手段として、国内消費の促進を進めるコミュニティーもあったが、有直な方法としては、輸出の促進が考えられた。

=輸出促進が、フォーディズムの実践の努力にとっての本質的な要素となった。

  • 日本の観察者らは、フォーディズム=科学的管理からの進歩、近代産業の発展の必然的段階とみなしていたが、工場生産のマスプロ化は遠い目標に過ぎないと考えられていた。←乏しい資本、豊富な労働力、不透明な市場。
  • むしろ強化されたのは、科学的管理法だった。

∵小規模な工場でも効率化が約束され、生産技術への新たな投資をほとんど必要としない。

=科学的管理法が、日本の産業合理化政策における優先課題であり、現実的な目標であると確認された。

  • さらに、産業合理化のレトリック=相互犠牲は、動員との密接に関係していた。

:推進者であっても合理化によって失業率は上がり、倒産が増え、カルテルが促進されることは短期的には認めざるを得なかった。

  • 産業合理化政策の推進者らは、「人類への訴え」を行ったが、それは左系への批判にすぎず、賃金の低い職場ではそのロジックは響かなかった。
  • 尤も、推進者であっても、国富と人々のウェルビーイングとは決して同一視していなかった。それらは各々異なったプロセスで実現されるものを理解されていた。→産業合理化の実践=国富を築くという資本的ゴールに集中していた。
  • 産業合理化の構築においては、工場内での効率性を追求するテイラー主義が拡張された。

テイラー主義:工場内での「見える手」。労使関係の調和。

→産業合理化:産業レベルでの統率。企業間、企業国家間の調和。

→能率運動、産業合理化ともに「科学」が思想の中心にあった。

  • 西洋でも、近代的な管理運動(≒テイラー主義)と、産業合理化は同じように連続性を持っていた。

⇔欧州では、テイラー主義は搾取的、利己的なものとして時代遅れと見做されることが増え、テイラー主義から距離をおくようになっていた

合理化とフォーディズムがより進歩的であるように見えるようになった。

⇔日本では同様の区別をしようとする者もいたが 、科学的管理は信用されないとか、産業合理化とはイデオロギー的に相容れないと指摘する者はほとんどいなかった

日本における産業合理化の概念は、テイラー主義の前提・戦略・方法論を拒否することに基づいているのではなく、むしろ新しい政治的・経済的文脈でそれを再確認することに基づいていた

 

2-2 Rationalizing the Scientific Management Movement

  • 1920sにテイラー主義が前進したにも関わらず、経営刷新を通じたコストの削減と効率性の向上にはまだ多くの余地があった。

:機械化は二次的な問題で、まずは、豊富なマンパワーの利用をどのように計画・統制するかが重要。

  • 臨時産業審議会(1930):近代的な経営技法(≒科学的管理法)の採用が、産業合理化運動の中心的な関心として想定される。
  • 生産管理委員会が発足:法的な強制や統制ではなく、研究と促進をメインで行う。政策の示唆を行い、近代的な行政方法の応用についての情報を普及させる。

←メンバーは大正時代の能率向上運動にかかわってきたベテラン。

  • 上野洋一がメンバーから除外されていた。

→生産管理委員会は、大正運動の「実践派」の流れを汲む著名人で構成されており、能率屋=上野らは排除されていた。

  • 小冊子の作成。→専門的な経営者や技術者向け。特に経営改革が切望された中小企業の人々。
  • 小冊子で展開されたテーマは、1930sの日本の工場における「最良の方法」の実践のスナップショットを形成しており、委員会が出した勧告は、テイラー主義の思想、レトリック、方法と完全に一致していた。

;複雑なシステム(工場、企業、産業)は、経営者=技術者エリートの管理の下で最適に機能する。そうした経営者=技術者は「中立的な」存在で、労使関係の緊張を融和させることができる。さらに、「人意的側面」にも十分な配慮がはらわれた。=修正版テイラー主義の思想。

  • その一方で、小冊子は、合理化の提唱者が直面した困難も同時に表していた。

Ex 高賃金の福音は、恐慌下では、ほとんど不合理、ナイーブなものに思われた。テイラー主義と温情主義の共生も、1930sにはストによって挫折し始めていた。

 =テイラー主義者らは、1930sの現実の適した融和政策を打ち出すことはできていなかった。「精神革命」は高く評価されたものの、包括的で実践可能な規範には十分に翻訳されることがなかった目標だった。

  • 計画することを実現することははるかに難しい。

→工業談話会という都道府県の経済団体ネットワークを利用して、1931年に「日本工業会」=課題解決を積極的に推進するための中央機関を設立。大阪に本部。

→無改心の人々に「合理化された」経営手法のメッセージを伝える、ダイナミックで注目される手段になった。

:工業会は第一大会で、中小企業を対象として、科学的管理の実施を支援するコンサルサービスを後援することを決議。

  • 科学的管理法を推進する組織として、他にも大阪産業能率研究所(1925)、経営学会(1927)、日本能率連合会(1927)などが設置。特に日能連は、工業会に匹敵する規模の存在だった。
  • 日能連の目標:国家主導の合理化運動の目標と一致。

⇔工業会とは違って、「能率屋」の避難所として機能していた面がある。

;メンタリティ・哲学、大衆迎合的論調>方法論・実践。

  • 財政不安に直面し、1933年に吉野信次が会長に就任し、上野は疎遠になる。しかし、工業会と同等の権威を持つことはなく、あくまでそれに準じる立ち位置。
  • 昭和恐慌期の合理化運動の特徴[2]
  • 運動が中央集権化・合理化(centralized and stramlined)していった。(ex 工業会、日能連)
  • (にも関わらずそれは、) 運動の実際の方向性・機能に直接介入するのではなく、民間企業の科学的管理法の支持者の仕事に対してお金を与え、促進し、合法化するといった「間接的な」貢献に限定されていた。(←民間セクターと政府の主導とが、その程度経営管理の問題で一致していたか?という問題。)
  • アカデミズムの抽象理論を否定し、生産管理員会の具体的な提案を実行する性格が強い。=未整備の小規模な工場へ、科学的管理法の「最適な方法」を普及するための補修教育。( cf 実践派が主流だったこと)
  • 工場労働者や一般民衆へ科学的管理法のメッセージを伝える取り組みが増加。
  • 大正時代の能率運動と、1930sの昭和運動との連続性

←日本のテイラー主義者らは、もはや科学的管理法の正当性を海外に求めるのではなく、日本の作業場での能率化の証明に求めるようになった。ニューヨーク大暴落の後、もはやアメリカは模範的な存在とは思われず、科学的管理法は徐々に日本の経験に根ざすようになった。=土着化・内面かされ、直感的・自然なものとして受容されるようになっていた。

まだ「修正版」テイラー主義は「日本スタイル」の経営として擁護されていなかったものの、知覚的なシフト(≒科学的管理法の「日本化」)は1930sに明白に進行中だった

 

  • Scientific Management’s Depression
  • 政府支援の合理化キャンペーンが最も活動的だった時期において、日本の産業の能率化はゆっくりにしか進まなかった。合理化運動の当事者も、1930s初頭から半にかけて、限定的な成功しか収められなかったことを認めている。

Ex 吉野信次:昭和初期の経営運動の達成は、「バケツの中の一滴」であったと結論づけた。

  • 実際に科学的管理法の普及を定量化することはほぼ不可能である。しかし、1930s以降、合理化運動が減速したという傾向を支持するデータがある。

→一人あたりの労働生産性は、1920s後半にかなり上昇し、恐慌の後は横ばい、場合によっては低下していった。

  • 技術的な合理化が進んだ側面もあるが、紡績業の場合など、それは1930s以前からの派生であり、産業合理化の成果であるとみなすことは難しい。紡績業以外でも、小規模工場における電化・機械化の指標は、1930年までに着実に増加し、それ以降は頭打ちになった。
  • 科学的管理法の実践が、1930s以降失速したように見える理由はそれほど明らかではないが、いくつかの要因が想像される。
  • 恐慌の影響→実質的な改革よりも、即効性のある解決策となった。
  • 大正時代の能率運動のベテランらが、政策の行き詰まりを中小企業の経営者やオーナーに押し付けた。

:合理化運動の主たる目的:まだ科学的管理法の福音を受けていない中小企業へ拡散すること。

⇔中小企業は、「近代的経営は大企業のためのもので、自分たちには関係ない」という保守的な反応を示し、依然として非合理的な経営が残り続けた。

=1920sのテイラー主義の導入時に見られたような、早熟で受動的なオーディエンスを獲得しなかった。

  • 政府の関心が薄く、財政基盤も脆弱。合理化運動の専門家のメッセージ自体も、(特にベルトコンベアー方式が導入された1933年-38年以降は) 時代遅れになっていき、大企業の無関心さえも引き起こした。
  • 産業合理化に含まれた内部矛盾

カルテルの促進と合併(combination)によって競争が減少し、効率的・協力的な経営が可能になると考えられた。

⇔①実際には、独占的な利益が約束されたせいで、個別の企業が経営システムを近代化するインセンティブも低下した。(cf; カルテル化された産業は少なくとも1934年までは独占的な価格水準を維持することができたと言われる。)

  • さらに解雇された労働者が新たな小規模工場を立ち上げ、輸出向け商品を生産したり、元の工場の下請けをしたりしたことで、皮肉にも、科学的管理のメッセージで到達するのが最も難しい種類の、技術的にプリミティヴな企業を生み出すことにつながった。
  • 産業合理化のもとでの科学的管理法の進展にとって、労働者の抵抗は深刻な障害にならなかった。製造業における非合理的プロセスの排除、効率的な機械の導入に対して労働者から異論は出てこない。
  • 結局、経営の専門家が結集され、効率化運動が再編成されたが、政府の後援によって現場の経営改革は急速には進まなかった。1930sには修正版テーラー主義が再確認され土着化していったが、中小企業においてその進歩は泥沼にハマり、恐慌や、合理化運動の内部矛盾などよって弱体化していった。

→こうした行き詰まりは、戦時体制の中で打ち砕かれていく。

 

議論

・全体の方向性としては、先行研究=大正時代からの科学的管理法導入運動は1930sの産業合理化運動によって亜流化・周辺化され、吸収されていったとする議論に対して、本章=30sの産業合理化運動は科学的管理法が浸透していった大正時代の土壌の上に成り立っており、哲学や方法論において強い連続性が見られるという主張を展開しようとしている。

・さらに、1920sにおけるテイラー主義の導入経路は「普遍主義」(=欧米諸国のトレンドを反映する形で同様の経路で輸入された)と主張されたが、1930sの合理化運動では、日本に「特殊な」経路が存在しているという点も本書の議論のポイントであるように思われる。

→つまり、欧米諸国では、1930sに入るとテイラー主義が時代遅れなものとみなされ、フォーディズムがより進歩的だとみなされたのに対し、日本では逆にテイラー主義こそが産業合理化の中で積極的に推進されるべきものとされていったのである。

←1930sまでに科学的管理法が日本に土着化し、欧米諸国から文字通りコピーされるものから進化していたことを意味している。

 

・1930sに政府の支援のもと、工業会・日能連の設立を通じて産業合理化運動が中央集権化したことは事実であるものの、その政策の内実はテイラー主義を中小企業へ「間接的に」拡散させるものにとどまり、加えて他方恐慌も追い風となり、限定的な効果しか産まなかったと厳しい評価を加えている。

 

・「産業合理化」というと、岸信介革新官僚がドイツの影響を受けて、資本と経営の分離(国家が国富増大のために産業全体を「統制」すること)を進め、新財閥の役割を強化し、社会主義的・総動員体制的な仕組みに刷新するといったイメージがある。だが、本書で描かれるように、実際には(実験台=「満州国」の場合とは異なり、)内地では国家の介入に対して民間サイドからの全面的な協力は得られず、統制は限定的にしか実現されたなかったという実態を再認識した。

 

[1] 政策上のアクチュアリティーを持つ概念としてではなく、「科学」といえば良い気がする、みたいな意味か?

[2] (3)に含まれるかもしれないが、1930sの合理化政策における経営方法の普及が、主にまだ「改心していない」中小企業に向けてなされていたことも重要な特徴だと思われる。