第二章 日本国内での軍産学複合体の成長と停滞
2-1 対英依存から国内の軍産学複合体形成へ
:筑波(1905年)、生駒(同年)、鞍馬(同);12インチ砲を4門。
→薩摩(1905年)、安芸(1906年);当時世界最大級の戦艦。
- 同時期に、英国ではドレッドノート(1905)、インヴィジブル(1906)が起工:蒸気タービンを搭載。
⇔日本の主力艦は、これらの弩級艦に比べて、竣工以前から「旧式艦扱い」された。
:「海軍整備の議」→1907年以降、海軍省における艦船製造費の割合は最低30%以上を占め、日露戦争後の緊縮財政下であったにもかかわらず、海軍省費全体が増加する最大の要因となった。
☜英国の弩級艦についての詳細な調査を行い、日本海軍の建造指針を提供したのが平賀譲。
- 平賀の調査報告:同艦の高速力は蒸気タービンに加えて、船体重量の軽減、機関部重量の増加を考慮した重量配分、試験水槽における実験に基づく船型の確定によって実現したとの認識。
- 軍産①:1905年の蒸気タービンの装備を決定し、1906年にアメリカフォーリバー社からカーチスタービンを輸入する。と同時に、国内の民間造船所=三菱・川崎造船所においても、タービンのライセンスを購入し、製造を促進される。
=民間工業育成策
(☜英国でも民間においてタービンが広く普及している。民間会社の経験・技術が軍艦計画に活用されている。→日本の民間工業の反省。)
☜『帝国国防史論』(1910):日本海軍拡張における民間工業振興の必要性を主張。→超弩級主力艦建造の民間造船所への委託が推進される。
- 軍学:
- 1897年に委託学生制度によって、東京帝大工科大学の海軍への就職の斡旋が行われる。=学費を支給する代わりに、卒業後は造船・造兵・造機の各部署に中尉として任官させる。
- 東京帝大造船学科における軍事研究:船体振動実験(1904年)。パービスや大森房吉。
- 造船学会の誕生(1897年):初代会長には海軍中将の赤松が就任。
- 海軍艦型試験所の設置:弩級時代の主力艦国産化を可能にするための研究開発体制。海軍と東大造船学科との関係は密接になった。
- 日本国内における軍産学複合体の形成は、この時期において実現した。
:超弩級主力艦の開発と整備を主体とした海軍拡張は、国内重工業の発展と一体化し、軍産学複合体の自己拡大に対する抑制が困難になる。
2-2 平賀譲の登場と八八艦隊の建設
- 1907年「帝国国防方針」=八八艦隊(戦艦・巡洋艦をそれぞれ8隻持つことが国防上必要である)の整備を定める。
⇔予算上の制約やジーメンス事件(1914年)によって実現は困難になる。
- 八四艦隊案の提出(1914年)→WW1により海軍拡張を後押しする。
→1918年度予算で八六艦隊計画が成立、1920年度予算で八八艦隊計画が実現。
=この計画のプロセスで、海軍と民間企業の連携による主力艦の国内建造が実施された。☜キーパーソン=平賀譲。
- 平賀にとっても主力艦計画における課題:
- 船体重量などの軽減、(2)高出力機関などの選定。
→八四艦隊計画の最初である「長門」計画への関与は、平賀がこれらの課題の解決を実施する機会となった。
→これを梃子として、八八艦隊計画においても用兵側の要望を実現する計画案を主導した。(ex 加賀)
→ドレッドノート以来の大艦巨砲主義に基づく世界最大級の主力艦計画案を提示。
- WW1後の不況で、国内造船業が停滞。→政府は造船業の救済策として、八八艦船建造の民間への発注を決定。=この時期の国内産業開発は、海軍軍需の対応としてなされた。
- だが、その一方、平賀の計画した主力艦が大型化するにつれて、建造費は国家財政を破綻しかねないほどの負担になっていく。
→八八艦隊計画は、物価の高騰による予算不足が遅れをもたらし、鋼材費の上昇ももたらすという悪循環のため、成立時点から実現困難なものだった。
- ワシントン海軍軍縮条約締結(1922)→国家財政の破綻を免れる。八幡製鉄所の需要の1/3が消失。
→海軍内では、条約の締結が軍産学複合体の弱体化につながるという認識が共有される。Cf 田路坦、加藤寛治ら「艦隊派」の台頭:軍縮反対論を唱える。
→ロンドン軍縮条約(1930年)の際に「統帥権干犯論」を唱え、政治問題化する。
2-3 軍縮下の軍事技術開発基盤の拡充
- 1925年に平賀は海軍技術研究所の造船研究部部長に転出。
:艦船計画について直接の権限を持たない役職。=「左遷」(※平賀本人も、海軍部内の者もそう見なしていた。)
∵平賀の方針:大型径砲を多数装備した主力艦による艦隊決戦を重視(大艦巨砲主義)
⇔ワシントン条約下:巡洋艦、駆逐艦、潜水艦などの「補助兵力」の活用を重視する新たな海軍戦略が模索される。
- 技研への「左遷」は、大艦巨砲論の挫折の結果であると同時に、軍縮下において技研の役割が上昇した結果でもある。=兵器の量から質へ
→艦型試験所、造兵廠、航空機試験所、火薬試験所を統合し、総合的な研究所としての海軍技術研究所が設立(1923年)。さらに、1925年には4部制になる。
☜平賀の転出は、WW1後の海軍が技術研究の規模を拡大する動きの一環として実現されたとも言える。
→1925年には技研の所長に就任し、広く海軍技術開発の全般を指導する機会をもたらした。
→退役海軍軍人の企業・大学への転出とそれに伴う技術移転。海軍委託研究・海軍嘱託を通じた大学・民間企業における軍事研究。
=国内の技術者の助力を得て、技研内で独自に研究開発が進められた[1]。
- 平賀自身も、新鋼材(=DS鋼)の開発・生産に重要な役割を演じる。
:英国からサンプルを持ち帰り、川崎重工、八幡製鉄所において研究を行わせる。
- このように、平賀の技研所長時代は、海軍技術が民間に流出し、企業での技術開発が急速に進んだ時期。平賀は1931年に所長から予備役に編入。
→1931年の満州事変勃発により、軍縮期に逼塞していた軍産学複合体が再び復活することになる。
議論
・本章では、平賀譲が推し進めた八八艦隊計画の下で軍産学複合体が実現する経緯と、ワシントン軍縮条約によって軍産学複合体が停滞する過程が描かれる。
・弩級艦の国内建造というスローガンの下で、東大造船学科や三菱・川崎造船所との癒着によって軍産学複合体が作り出され(下図)、それが国家予算を逼迫するまでに肥大化した八八艦隊計画(=海軍の政治力の象徴)に結実した。=「軍産学複合体の実現」
・一方、ワシントン海軍軍縮条約の締結によって軍産学複合体は停滞期を迎えることになる。反軍縮路線を掲げ補助兵力重視の発想と対立した平賀は、技研に「左遷」されることになった。
・しかし、他方で条約下では兵器の「量から質へ」という路線が変更された時期でもあり、平賀の「左遷」は海軍が技術研究の規模を拡大する動きの一環として実現されたと見ることもできる。平賀が所長に就任すると、委託研究を通じた学との連携や、民間企業との共同研究も活発化した。
・本章の疑問点は、何を持って軍産学複合体の「完成」としているのかがあいまいなところであると思われる。国家予算を逼迫するまでの政治力をもち、海軍のポリティックスが頂点を迎える側面に着目して「完成」としているのだろうか?
・一方、この時期に海軍が進めた八八艦隊計画と、三菱・川崎・八幡・日本製鋼所との癒着、東大造船学科の癒着関係、さらにはそのもとでの海軍政治力の肥大化というシナリオは、ある意味で納得できる点も多い。だがそれは、造船技術という西欧諸国でも比較的伝統があり、国内でも明治時代から歴史を持つ技術を例にした場合なのであって、いわゆる(電気・化学といった)新興技術の場合においては同じ主張ができるのかどうかは、別の検討が必要だと思われる。
[1] 委託研究、海軍嘱託を通じた外部研究者との共同研究は、技研設立以前の造兵廠の時代から行われている(ex 三六式無線電信機開発における木村駿吉、アーク送信機開発における水野俊之丞、リーベン管製作における林房吉など)。したがって、平賀の所長就任以降にこうした動きが本当に進展したのかどうかは、嘱託の人数や委託研究の件数の推移などから実証的に確認する必要があると思われる。