yokoken002's note

Reserch review on the history of technology and science

畑野、2005年、第3章。

第3章 軍産学複合体の復活と日本の戦時体制化

3-1 ワシントン体制の崩壊と軍事工業の成立

  • 1931年満州事変が勃発し、軍縮条約で弱体化していた軍産学複合体が復活する。斉藤実(元海軍大臣)を首班とする内閣において、様々な産業強化政策が実施された。:
  • 船舶改善助成施設(1932年);助成金によって不経済船を解体し、優秀船を建造させる。並行して海軍が艦艇補充計画として38隻のうち半数を民間の造船所に発注した。(また平賀は本格的な実艦実験も行う)。
  • 八幡製鉄所と民間鉄鋼業の製鉄合同;1934年に日本製鉄株式会社が発足。「産業合理化」の一環として進められていたものが、斎藤内閣の下で実現。技術面では、野田鶴雄が主導。(Cf 「野田曲線」)
  • 石油業法」による燃料国策の樹立;1933年に液体燃料についての協議会が発足し、「燃料国策実施要綱」が作成され、石油業法が成立(1934年)。商工省ではなく海軍が最も積極的。(∵海軍次官藤田が吉野に照会状を出し、その結果協議会が設置された。)
  • 日本学術振興会の設置(1932年):財部彪が運動に関与して以降、「国防方面と工業方面が一心同体」となるような、海軍・産業界の要求を実現することを目標とした制度に変化[1]

 

  • 軍学:「友鶴」の事故を契機に、臨時艦艇性能委員会が設置(1934年):加藤が委員長で、平賀を委員に招き、平賀が九州帝大、東京帝大の部外研究者を嘱託として理論点から検討を行われた。さらに、東大の船舶工学科には、「海軍技術研究所東大分室」の表札が掲げられ、大学研究者と軍の関係が以前より密接になった。
  • 軍産:地方統制工業=反条約派の山下らが中心になって、科学的管理法による中小企業の育成を企図。

 

  • 1936年末にワシントン・ロンドン条約が失効。新戦艦(=大和・武蔵)の基本計画が始動。 →第三次、四次海軍補充計画が具体化されていき、八八艦隊時代を思わせる艦艇建造競争が生起

 

→平賀は、武蔵の建造を三菱長崎造船所に発注することを支援。

☜これらの背景には、満州事変の勃発と艦隊派の政治的台頭があった。

 

3-2 戦時体制における海軍・大学間協力関係の緊密化

  • 1937年軍需工業動員法が発動、同年企画院が統合、1938年国家総動員法の公布。

⇔海軍:資源局と企画庁の統合には反対

∵企画院を拠点とする革新官僚の存在は陸軍と一体視され、企画院の施策は海軍の権限低下を意図したものとみなされた。

☜1938年に「不足資源の科学的補填」を目指す科学審議会が企画院に設置されると、「科学審議会設置に関する意見」として、海軍は「企画院(実質的には陸軍)が之を掌握せんと思想は、科学に最も縁遠き者に科学研究の方針を左右せしむることとなり、適当ならず」という意見を表明。

=従来、産業界・大学との密接な関係によって築いてきた技術研究開発に主導権を陸軍に奪われることを警戒した。

  • 文部省は対抗策として、同年に科学振興調査会を設置。;純然たる学術行政に関する審議会。

=海軍と大学が陸軍・革新官僚による研究開発の統制に抵抗し、イニシアティブを保持するための提携関係を構築する契機となる。

→同調査会では、平賀(+波多野)が主要メンバーとして積極的に発言を行う。

第二工学部の設置、科学研究費交付金などが実現されていく。

  • 平賀に対して、一貫した支持が存在したのは、調査会の活動中に平賀が東大総長に就任しており、戦時下の大学拡張・地位向上に尽力していたから。

そして、このことは同時に、海軍にとっても自らの政治的立場を強化しうるものでもあった

 

3-3 平賀東京帝国大学総長による軍産学複合体の強化

  • 「平賀粛学」

☜陸軍統制派の石原莞爾のブレーンでもあった土方(=海軍にとっても警戒の的)がパージ。

  • 1940年には平賀は学術研究会議の会長に就任。

→人文・社会科学部門をも包摂するようにシフト。

=官僚による研究統制に反対だった知識人らにとっても歓迎すべきこと。

  • 第二工学部の設置:総長の平賀が海軍当局と接触し、計画は急速に実現に向かっていった[2]
  • 工学部総合研究所の設置:委託研究21件のうち、半数以上の11件が海軍からの委託が占める。=狭義の軍事研究よりも軍民両用研究。

⇔かねてから軍学一体の「総合研究」の重要性を主張していた平賀の推奨によるものと推測される。

  • (「国体の本義」を入れることに抵抗・阻止。)
  • 以上、総長の平賀時代に、帝大との関係は深化し、人文社会科学系の研究者の協力を獲得した。海軍・大学の勢力が、企画員・陸軍による科学技術行政の掌握の失敗・戦時体制の挫折をもたらした。

→1940年「科学技術新体制確立要綱」→学界・産業界・文部省の抵抗によって、内容は大幅に変更。=科学技術動員における企画院の影響力は限定的なものとなった

  • 企画院主導の経済新体制にも消極的姿勢をとった。

:美濃部→高木「一般官庁は自己の希望に近き海軍の主張を利用し、之を背景として陸軍と争ひ以て現状維持を守らんとせり。…海軍プラス「シヴイル」対陸軍の対立の形を生じ…」

軍産学複合体を通じて工業界・学界との関係が密接だった海軍は、civilの政治勢力であると評価されていた

  • 平賀(-1943)が戦時体制においてキーパーソンになり得た理由

ナショナリズムと国際性との矛盾的共存(=イデオロギーとしては国家主義的であり、技術者としては国際的存在)。

 

議論

  • 本章では、満州事変勃発後に軍縮条約が失効し、八八艦隊計画を彷彿とさせる新戦艦の建造計画が再始動する中、軍産学複合体が復活する経緯が描かれる。
  • 評者は、1930sにおける技術政策・(学術政策)における海軍の影響力は大きくないとの認識だったが、本章で述べられる内容(=船舶改善助成施設、石油、学振、科学振興調査会、第二工学部)を読み、これらには海軍が重要な役割を果たしていることがわかった。
  • 一方、商工省の技術政策と海軍の関与は薄いという認識は依然として修正されることはなかった。それもそのはず、筆者はこの章で以下のような対立図式を軸に議論を進めているからである。(商工省の革新官僚と海軍とは対立する影響関係にある。)

 

  • つまり著者が提示しているのは、海軍の政治力は、東大総長=平賀のもとで主に大学セクターと絡む形で、学振や文部省を中心に拡大・展開していったというシナリオである。したがって、海軍は企画院=革新官僚系列とは対抗する勢力であったという見立てになっている。

 

  • こうしたストーリーテリングには、確かに納得できる面もある。しかし、そもそもこうした勢力の対立がある中で、この時代の日本に「軍産学複合体」があったと主張できるのかはかなり疑問である。
  • なるほどたしかに、この時期には、条約の撤廃によって軍拡が再び進行し、大和・武蔵の建造も行われ、大学も技研の「分室」となって一層癒着が深まり、民間企業への新戦艦の発注によって軍産の癒着も強化される。加えて、東大総長=平賀のもとで文部省・学セクターの支持も集め、陸軍に対抗するcivilの政治勢力としての立場を強固にしていき、企画院の政策を挫くことにも成功したのであれば、それは「軍産学複合体」の実現であったと言えるかもしれない。

 

  • しかしそうであっても、その海軍のpoliticsは、あくまで陸軍―企画院のpoliticsに抵抗するパワーしか持ち得なかったのではないか?そうだとすると、それはアイゼンアワーが警鐘を鳴らしたような、民主主義全体を脅かすほどのパワーエリートとしての「軍産複合体」や、それが科学研究を必須のものとしているがゆえに学セクターがbuilt-inされた「軍産学複合体」(=民主主義だけではなく学問ディシプリンの健全な発展さえも歪め・圧迫するものである)とはやはり次元が違うのではないかという気がしてならない。

 

 

[1] 財部の関与については、山中千尋日本学術振興会の設立: 組織形成と事業展開」『科学史研究』第60巻298号(2021年)、131-149頁も参照されたい。ここでは、財部の関与以降、産業界の活性化という要素が全面化したと述べられている。

[2]東京大学第二工学部の光芒』(東大出版、2014年)、21頁にも同様の記述がある。