第二章 エレクトロニクス分野の「尖塔」建設
☜「評判の良い地方大学」から「エレクトロニクスの分野で世界的に卓越した研究センターの一つ」に作り上げた。
⇔軍事優先によって急速な拡大が可能となった。
(DODとの契約は、1946年:約13万ドル(※政府関係の契約額でDODに限らない)、56年:450万、66年:1300万ドル。
- “Steeple of excellence“(エクセレンスの尖塔)=ある研究分野(この場合、電子工学)における世界的権威が集まることで大学の地位をあげようとする政策。
←スタンフォードにおける電子工学とは、軍用のエレクトロニクスを意味していた。
:その拠点=ターマンが築いたSEL(スタンフォード電子工学研究所)
→数十の企業も生み出した。
2-1 通信技術という選択肢
- ターマン:学部はスタンフォードで過ごし、1922年にMIT大学院に入学、1924年に博士論文を完成。1年の非常勤講師を経て、1926年にスタンフォードの常勤に就職。
- ターマンの目標=スタンフォードの電気工学科を、MITをモデルにして作り変えること。
→産業利用を指向した通信工学のプログラムを開始。彼の教科書『無線工学』(1932年)も産業利用への指向を反映しており、現実の問題を中心に据え、現場の技術者から定評があった。
→6年間で33の大学院学位論文を指導。
- 優秀な学生を惹きつけるのは、名声ではなくお金であるとの判断。
∵MITは、大学院生に奨学金として年額9万1000ドルを支給している。その結果、院生の3/4は他大学から来ている。
⇔スタンフォード大学院は、ほとんどが内部進学者(44/60)。
☜このための資金を地元のエレクトロニクス企業に求めた。
2-2 無線工学研究所
- NDRC委員長のブッシュは、ターマンを無線工学研究所(RRL)の所長に任命。
RRL:ラドラボのスピンオフ研究所で、MIT所属。
∵ターマンは、無線工学協会(IRE)の会長に40歳で就任しており、豊富な人脈を持つ。
→1942年2月に東へ。
- 優秀な人材はすでにラドラボに取られていたが、年末までに250人を集める。1/3が物理、残りが電気工学。(このうち、ノーベル賞受賞者も2人出る。)
- RRLの研究課題:レーダーの妨害、対抗装置[1]。3億ドル。
☜ターマン自身は、研究所と外部の契約企業の生産技術との調整を図り、RRLで発明したものを製造してもらう仕事に従事。
→軍産学の提携関係は、戦後においても継続することを確信。
2-3 西海岸を制する
- 1946年にターマンはスタンフォードに戻る。
:財政支援先を地元のエレクトロニクス産業に求めるのではなく、当初は軍からの研究委託の中から選んだものに尽力することで、大学が産業を支援すべきだと考えた。
→電気工学科は、エレクトロニクス研究所(ERL)を設立した。1949年までに年間50万2000ドルの契約額を獲得。
- 1950年までにスタンフォードは、エレクトロニクス分野で「西のMIT」の言えるまでになっていた。
2-4 朝鮮戦争による動員
→ほとんど議論がないままで、初年度は30万ドル、次年度は45万ドルの委託研究を承認。
→一夜にしてスタンフォードの電子工学プログラムはその規模が2倍になった。
- ターマンは、ERL=基礎で公開研究/ AEL (応用エレクトロニクス研究所)を応用で機密研究を行う場所として、管理上分けた。
⇔ただし、この区別は曖昧であることを認めて、1955年にSEL(スタンフォード電子工学研究所)として統合した。
2-5 日常業務として
- 朝鮮戦争のための動員は、地元のエレクトロニクス産業にも、契約上有利な立場を与えた。
(ex ヴァリアン・アソシエイツは20万ドル(1949)→150万ドル(1951)に売上を伸ばす。ワトキンス・ジョンソン社=最も財政的に成功した会社。)
- この時点では、東海岸の企業の基準からすれば西は取るに足りないもの。
∵GE、RCAの1956年の売上はともに7億2500万ドル。
⇔ヴァリアン・アソシエイツは1956年で2500万ドル。
→東海岸の企業は、西における軍事エレクトロニクス市場の急成長に便乗しようとした。∵
- 軍市場は安定している。
- 軍との研究開発契約は、新分野への安上がりな参入手段である。(それでいてスピンオフの可能性もある。)
- 陸軍通信隊のQRC研究→エレクトロニクス防衛研究所(EDL)
:スタンフォードの関係者を活用。大学の「特別協同教育プログラム」の最初の参加機関となる。60年代初頭までにEDLだけで92名がこのプログラムに送り込まれた。
→レーダー用の高出力進行波管、電子対抗手段のための低雑音進行波管の研究。
(他にもアドミラルやシルバニアなどの企業も研究所を設置)
→1960年までに米国の年間数百万ドルの進行波管ビジネスの1/3がスタンフォード大学の周辺に立地した。
→ターマンは、スタンフォード・インダストリアル・パーク構想を支援した。
=大学の敷地にハイテク企業の団地を作って産学連携を促進するもの。
→会社と大学の境界線をあいまいにした。
2-6 小型化革命
- 1947年にトランジスタが発表。
→SELを最新の状態に保つため、ピティットらをイリノイ大学に送る。また、トランジスタの発明者のショックレーが自身の会社を作ることに感心を持っていると聞き、スタンフォードの近くに移転するように売り込む。
→1955年にスタンフォード工業団地にショックレイ・セミコンダクター社を設立。
- スタンフォードにおける固体エレクトロニクスの場合も、軍事研究の契約で一流の学術プログラムを形成し、これに関連分野の教員を招聘し、産業界との連携によって企業の関心・支援を集めるという道をたどり、トップに立っていく。
☜SELの固体エレクトロニクスのプログラムは、変化する軍事上の優先度を反映していた。=当初は「スマート兵器」の小型で信頼性の高いエレクトロニクスの開発を目的とするものだった。
実際、SELの予算は、1960年にJSEPからは33万ドル、陸海軍軍の個別研究からは約230万ドルを受け取っている。
- スタンフォード大学では、委託研究/教育、基礎/応用の境界が曖昧になっていた。
☜ターマン:「このゲームは勝つのが容易だった」と振り返る。
⇔彼らの成功が、軍の機関がルールを決め、ゲームがどのように行われるかを決める程度をめぐる、厄介で終わりのない疑問を提起することになる。
[1] これはドイツ向けなのだろうか?「すべての連合国」の作戦で使われたとあるので、日本のレーダーに対するジャミングも行われていたのだろうか?