第1章 軍のまわりに群がる大学
- 戦後のMITのビッグ・サイエンスの研究テーマの決定において決定的な影響力を持っていたのは、軍だった。
:WW2の終わりまでに、MITと政府との間で結ばれた国防関係の研究は75件(1億1700万ドル)で、2位のカルテク(8300万円)を大きく上回っていた。→MITの優位は冷戦期を通じて維持される。
- 資金が使われた場所で特に重要なのは、エレクトロニクス研究所(RLE)
=組織形態・資金供給のあり方・研究テーマの選択において、軍産学連携の先例となり、戦後における知識の政治経済(political economy of knowledge)を形成する上で大きな影響を及ぼした。
(60s初頭までに博士300人、修士600人、学部生600人が学び、MITの学長=ストラットンなども輩出。)
- ラウンド・ヒル
→ジャクソンが電気工学科の学科長で、産学連携の推進者。
- ストラットンは弱電に進み、真空管の設計で修士号をとったボウルズの下で卒論・修論を書く。(博論はデバイとともにチューリッヒに留学し、そこで書いた。)
- ボウルズ:AT &Tと電力輸送の分野で連携の教育プログラムを導入した人物でもあり、その後、通信工学の分野でのベル研究所との連携を進める。
→資産家のグリーンの出資もあり、商業放送技術の研究拠点をラウンドヒルに創設する。
→MITはマイクロ波の理論・実験の中心地としての地位を確立し、1933年に電気工学のカリキュラムを電気工学・電磁気学を中心とするものに変えた。
⇔恐慌の影響もあり、(グリーンの死もあり)1937年にラウンド・ヒルは閉鎖。
- しかし、時局悪化につれて、マイクロ波の、航空機の探知・誘導への応用が重要視されるようになる。
→スペリー・ジャイロスコープ社=MITと1937年に航空機着陸システムで契約を結び、将来の巨大防衛契約における優位性を獲得する。
(陸軍の契約も得る。)
- 放射研究所
- 1940年科学動員の組織であるNDRCが発足。
☜軍は保守的すぎるとの信念を持っていたブッシュは、民間企業と大学を通じて軍事研究の契約を行う民間人からなる機関を提案し、NDRCが誕生。彼が委員長になる。
- NDRCの緊急課題はマイクロ波レーダーの研究であり、コンプトンはベル研やGEのメンバーも加わった「マイクロ波員会」を設置し、同年10月には最新型のマイクロ波レーダーを開発するための大きな研究所を設立することに合意。
→NDRCの契約のもとに、50万ドルの予算がMITにわたり、放射研究所(ラドラボ)が設立された。
:4000人、年間予算1300万ドル、企業契約の総額15億ドルと、マンハッタン計画と競合関係にあった。(Cf 「戦争を勝利させたのはレーダーで、原爆はそれを終わらせたに過ぎない。」)
- ラドラボはラウンドヒルの伝統の上に成り立っていたが、同研究所の日常的な運営は外部の物理学者に任されていた。MITの学科のメンバーでさえ、ラドラボには小さな影響力しかもたなかった。
- 1944年の夏には、ストラットン、コンプトン(MIT学長)、スレーター(学科長)らは、ラドラボによってMITにもたらされた機会を利用する方法について議論し始めた。
→マイクロ波エレクトロニクスの研究プログラムの構想。しかし当初、研究所の資金がどこから来るかは定かではなかった。
- ⇔政治の風向きが変わり始める。海軍・空軍はすでに第三次世界大戦に備える真面目なプランを作り始めた。
→軍は、「機能的パートナーシップ」の継続を企図した。
←WW2は、軍隊だけでは勝つことはできなかったのであって、科学者・企業家・技術家が兵器に貢献した。
- ONR(海軍研究事務所)が科学研究の最大のパトロンとなり、戦後の軍と大学の関係の先例を作った。
- エレクトロニクス研究所
- 軍は、類ない戦時中の資源が戦後の動員解除の中で失われてしまうことを恐れ、大学とのパートナーシップを延長・拡大するための方策を練った。
=ラドラボの基礎部門を「エレクトロニクス研究所(RLE)」として再編すること。
→1946年3月、軍はRLEなどへの金銭的援助を獲得するための「電子技術共同プログラム」(JSEP)を設立した。そして、RLEは、JSEPからの予算60万ドル[1]によって、ラボラドで雇用されていた大学院生、MIT電気工学科の教授17人、教員27人によって業務が開始された。
- ストラットンらは、JSEPの契約が認める「自由度」を誇りにしていた。=「個々の学生が研究のトレーニング」という観点で最大の利益が得られること。また、当初は研究所の活動の大部分は機密化されなかった。
⇔研究テーマの多くは軍の関心と直結していて(ex マイクロ波管・導波管)、軍の技術諮問委員会によって監視されていた。
- →メテオ・プロジェクト:海軍の空対空ミサイルの空百万ドルの契約を通じて、間のなくRLEは秘密の軍事研究に嵌め込まれた。
- 国防総省が1950sを通じてRLEの予算の97%を占めていたが、産業界の寄与のページも無視しなかった。
→RLEは、研究と卒業生を通じて地元の電子関連の産業の成長に寄与した。研究所は最初の20年間に14の企業を起こした。(メットコム、アドコムなど)
=「技術上の専門知識とペンタゴンとの良い付き合いが重きをなすような領域」
- RLEの防衛関連への指向性→MITなど学のカリキュラムに影響を与えた。
:(1)教科書:教授らはMITで学位を取って、自分たちが教えることを教科書に書く。→初期のRLEの研究プログラムの軍事的な性格を反映している[2]。
(2)RLEのメンバーが、MITの電子工学のカリキュラムの改訂を行う。エレクトロニクス、通信、電磁気・回路理論に強く傾くものになった[3]。
→新カリキュラムが選択した電気工学の概念、テーマは、著者たちが当時研究していた軍事関係の諸問題によってかなり影響を受けていた。
=古い電気機械実験室を廃棄し、戦後の軍事システムの中心を占める応用エレクトロニクスの差し迫った要求によって体系化されたカリキュラム。
- 朝鮮戦争が勃発(1950)すると、RLEは、陸海空軍の大規模な機密研究を引き受けた(電子空防術、レーダー・ソナー、戦闘通信システム)。
- リンカーン研究所
- ジョージ・ヴァレーが委員長を務めるSAB(空軍科学特別諮問委員会)によって、空軍はMITに対し対空防衛研究のための新しい研究所を設立することを勧告。
←1949年にソ連が最初の核実験を行ったことで、アメリカは空からの攻撃に脆弱であると懸念するようになった。
→SABは1949年12月にADSEC (防空システム技術諮問委員会)を設置し、委員長にヴァレーが就任。
→地上レーダーと対航空機兵器とをコンピュータで結ぶ、総合的な防空ネットワークというアイデアが生まれた。
- さらに朝鮮戦争はこの委員会の仕事に緊急性を与えた。
⇔しかし、当初MITの首脳部は、学内にラドラボのような大規模の研究所を作ることに反対していた。
∵陸海軍の影響力がMITを侵食しようとしている。
→しかし、結局、「戦争の脅威は現実かつ深刻であり、研究所は国に対して重要な責任を負っている」と結論づけられた。
- リンカーン研究所(1951年)が設置:22人(うち13人がMITからの移籍)。
→54年には空軍基地の隣接エリアに移転。
- 同所の最初の大規模プロジェクト=SAGEシステム
:デジタルコンピュータに繋がれたレーダーと対空兵器の全国的ネットワーク。政府資金の80億ドルが投じられた。
- SAGEの頭脳=Whilwind(つむじ風)と呼ばれるコンピュータ
∵数千もの航空機の追跡を死角のないレーダーで行うためには精巧なコンピュータが必要。
→フォレスターの研究室の「つむじ風」計画が統合していく。
:この研究室では戦時中から海軍向けのコンピュータ開発に取り組んでおり、46年以降はデジタルコンピュータの研究に力を入れていた。
→1951年にリンカーン研究所の第六部門に統合された、
⇔事実上、彼らのすべての研究が略語も含め、秘密とされた[4]。
- 地元の電子産業にも影響を与えた。Ex: DEC(デジタル・エクイップメント・)
→同社は明確に民生指向だったが、「防衛関連研究の直接の工業界への移転の例」
:1986年までにリンカーンからのスピンオフ企業の年商は86億ドル、10万人以上を雇用している。
- MITの学科長のブラウンは、1958年に学科の視察委員会向けに「科学に向かって整列した大学(A university Polarized Around Science)」と名付けた図式で説明。
⇔RLEも、外部企業との連携についても省略されている。
→実際には、A University Polarized Around the Militaryと言うべきである。
- 戦後50-60sにおけるMITの成功
⇔技術教育のパターンが、組織的・概念的に、安全保障国家の要求によって設定されることのコストについての懸念が高まった。
[1] おおもとは国防総省から出ているのだろうか?それとも軍?
[2] これは極めて需要な議論であるが、軍事的性格が反映されるとは何を意味しているのだろうか?実際のところ、ここでは有名な教科書を列挙しているのみで、教科書に反映されている「軍事的な性格」の中身に立ち入って検討しているわけではない。
[3] これらは「弱電」部門のごく一般的な内容だと思われるが、軍の意向が反映されたと言えるのだろうか?
[4] この場合、博士論文も非公開扱いになるのだろうか?そして、それは認められることなのだろうか?非公開になるなら、学の発展にかなりの「悪影響」が及んだと考えられそうだが、可能であればもう少し踏み込んで言及してほしかった。