yokoken002's note

Reserch review on the history of technology and science

畑野、2005年、第1章。

第1章 軍産学複合体の前期的形成

1-1 軍産学複合体の端緒としての横須賀製鉄所

  • 幕末の横須賀製鉄所設立=日本における軍産学複合体の形成の端緒

  • 艦船の修理・建造を目的とする工廠の設置は、幕府にとっての重要課題=軍事力の強化を解決するために設置された。
  • 同所は、フランス人から造船技術を習得する組織的な技術伝習機関としての役割を持っていた。

→軍事力・産業力・技術力が一体として追求される、軍産学複合体の拠点として発足した。

  • 維新後は、フランス人主導による運営から脱却し始める。

:(1)1875年にフランス人を解雇し、首長に赤丸則良を就任させる。また、造船所学科を予科と本科にわけ、本科では造船学・機械学なども教授されるようになるとともに、予科性との教育を開成学校へと委託する。=海軍の委託学生制度の嚆矢

(2)1875年以降、造船技術の導入先をイギリスに転換させ始める。とくに、仏人ベルニー設計による「迅鯨」の不良をエルガーが解決した出来事をもって、イギリス技術依存による横須賀製鉄所の造船技術教育の体制が書くエイルした。

  • 以上の動向は、技術導入のための工学教育機関の本格的整備を伴うものでもあった。

→1882年に横須賀製鉄所の校舎生徒の募集を打ち切り、海軍造船官の養成を工部大学校へ委託。

  • さらに、1884年には東京大学理学部の中に海軍の川村の要請(=海軍拡張への対応策)で造船学科が設置される。→1886年帝国大学の発足とともに、同大学の正式学科の中に組み込まれた。
  • その後、1887年には工科大学に造兵学科と火薬学科の設置も実現。

海軍主導による造船学科の設置が、帝国大学工学部の教育・研究における軍の関与の端緒となった

 

1-2 イギリスへの技術依存による日本海軍の成長

  • 日本の軍産学複合体は、英国の造船技術導入による海軍拡張によってどのように成長していったか?
  • 1883年に、伊藤、佐双らが欧州出張。

←国内民間海軍業社である日本共同運輸会社の船舶整備の目的を伴っていた。

※資本金の半分は政府から出資。

→政府の斡旋によって三菱と共同運輸が合併し日本郵船会社が設立(1885)。

  • 当時の三菱は国内造船業において鉄・鋼の建造が技術的に不可能であった。

→海軍が共同運輸会社の汽船購入を通じての技術導入と、三菱との合併の積極的賛成[1]とによって、国内の民間海運業と造船業との育成による潜在的海軍力の強化を推進した。

→英国の建造技術に依存した鋼鉄艦の整備を主体とする海軍拡張の方針が定着。それを台頭していたのが、山本権兵衛

山本の国内産業力の充実と並行した造船の国産化政策:

  • 海軍艦政本部の設置(1900年)
  • 海軍工廠の拡張。
  • 海軍拡張計画(1902年)、1903年に成立。

 

 

1-3 日本海軍の建設モデルとしてのイギリス軍産学複合体

  • 同時代に、英国でも軍産学複合体の形成が進む。

:(1)軍-産の癒着;1889年にNational Defense Actが成立し、海軍工廠から民間兵器産業を頼る方針に転換。特筆すべきはアームストロング社

→同社は、Admiralty Listに掲載されるために、日本からの受注によって実績を積もうとした。

→英国海軍のChief of Constructorのウィリアム・ホワイトが1883年に同社へ入社し軍艦設計を指導。(以降、同社が設計部長に海軍のChief of Constructorを就任させることが通例となった。)

←19C末の英国における軍艦建造の受発注を通じた海軍と民間産業との急速な結合=「軍産複合体」(マクニール)

 

(2)軍-学の癒着;1904年に英国海軍省にCommittee of Designが設置。グラスゴー大学教授のケルヴィンらが同委員会に参加する。

☜大陸では、軍事技術教育は大学ではなく軍学校内部で実施される傾向が強まっていたが、英国では総合大学の中で実施されている。

( ☜日本も英国も、海軍当局が造船教育における学理・実習の重視という観点から、大学における造船学科の設置を促進したという共通点。)

→さらに、日本で活躍した英国造船技術者が、グラスゴー大学などの学で活躍している(ex エルガーヒルハウス)。

 

  • 上記の日本海軍は、イギリスの軍産学複合体の一環に組み込まれて成長した

 

 

 

 

 

議論

・本章では、横須賀製鉄所設置を発端として日本の軍産学複合体の形成が始める様子と、それが英国の軍産学複合体の形成の一環として進んでいたことを論じている。

・横須賀製鉄所は富国強兵を背景とした造船産業の勃興を体現していただけではなく、造船技術者の教育機関の出現をも体現した軍産学複合体の拠点として出発した。導入先としてのフランス技術から英国技術への移行に伴なって、東京大学・工部大学校との「委託学生」制度の開始や、造船学科・火薬学科・造兵学科も設置なども行われ、軍と学の癒着が進行していった。

・加えて、日本郵船会社の設立によっても軍-民の結合にも拍車がかかった。それは民間の造船技術の向上を背景としたものでもあった。

・こうした動きを推し進めたのは山本権兵衛だった。彼は海軍大臣に就任し、艦政本部の設置も行うなど、政治力の強化にもつながっていった。

・同時代には、英国でも軍産学複合体が進行していた(以下の図)。さらに、アームストロングが海軍軍需を受ける実績稼ぎとして日本市場を位置付けていただけではなく、日本で造船技術を指導した学者がのちにグラスゴー大のポジションについている。こうしたから、日本は英国の軍産学複合体形成の一つの歯車として機能していた。

 

 

[1] これはどの程度の「圧力」と考えて良いのだろうか?「積極的賛成」とは?

 

 

 

畑野、2005年、序章。

畑野勇『近代日本の軍産学複合体』(創文社、2005年)

 

序章

  • 本書の目的:日本海軍を軍事技術と直結した科学技術の研究開発の主体として捉え、「軍産学複合体」という観点から近代日本政治史において日本海軍が果たした役割を考察すること

 

  • 軍産学複合体レスリーの先行研究で提示される概念。

:アイゼンアワーの演説(=軍産複合体):

  • 軍隊と産業と癒着が恒常化した時期を、WW2後とする。
  • 特に技術開発における軍と大学の関係の深まりが(1)=癒着現象を生み出し、外部から統制が効かない状態を作り出した。

レスリーは、単に軍部と産業界の相互利益の分析(ex 死の商人論)に終始するのではなく、科学研究・技術開発を媒介とした軍民の結合をいう点を強調[1]。WW2後の軍産複合体は、科学技術の基礎研究の担い手としての「大学」を一貫して必要としている点を強調。

=「軍産学複合体(The Military-Industrial-Academic Complex)

 

  • 本書の議論:「軍産学複合体」という概念を近代日本政治史上の分析に適用し、その起源と戦時体制までに至る膨張過程を辿る。

∵軍産学複合体は、WW2後の米国に先立って、近代日本における海軍・重工業界・大学の三社結合において、典型的に見出される。

 

 

           
     
       
   
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 造船・火薬・造兵などの学科の創設・拡大は、海軍の要請によるところが大きく、後の研究委託を通じた軍学結合の契機となった。また、「委託学生制度」(1876)も、学と軍の結合を示している。
  • 造船業をはじめとする国内の重化学工業も、海軍と密接な関係のもとに発達した。
  • 本書における軍産学複合体の定義=

「軍民両用技術の研究・開発のための組織間の結合によって、海軍の拡張と産業力の強化、そして科学技術の研究開発の振興が揆を一にして行われることによって海軍の政治的影響力が強化される体制」

 

  • 議論を進める上での注意点:
  • 他国、とくに英国の軍民複合体が日本のそれの発展モデルとしてどう機能したかを論じる。
  • 大学工学部の役割を重視する。
  • 軍産学複合体の形成が、海軍の政治的発言力の強大さの原因になり得た点を重視する。(ex 1930sからの本格的な産業政策・学術政策を技術面から主導したのは海軍だった[2]。)
  • 軍産学複合体の体現者=平賀譲に注目する。

 

 

 

議論:

・本書は、WW2後の米国で見られた「軍産学複合体」(レスリー)という現象が、戦前の日本に当てはまるという壮大な主張を展開するものである。

・「軍産学複合体」という概念の重要な含意の一つとしては、それが一種の「パワー・エリート的政治」になる(=健全な民主主義の機能を歪ませるような強大な政治力を獲得し、自走していく)という点があると思われる。

・筆者は平賀譲に注目して、学と軍、軍と産業の癒着関係が作り出した「軍産学複合体」によって、海軍の政治力が強化されたという点にまで踏み込んで分析しようとしている。その点、政治史を専門としている著者の強みが生かされていると思われる。

 

[1] アイゼンアワーの演説=軍産複合体と、レスリーの軍産学複合体の違い・差分が明確に書かれていないが、おそらくは、後者はとくに科学研究の基礎支援という側面にフォーカスをあて、それを通じた軍学の結合が軍の政治力の強化に繋がったという議論であると想像される。(レスリーの著作は翻訳もあるので、確認したい。)

[2] 評者の見立てでは、1930sの技術政策・学術振興における海軍の影響力はさほど大きくなく、受動的だったというものである。本書の議論が、どう説得的に展開されるのか

 

楽しみである。

 

 

 

 

 

平本、2012年。

平本厚「真空管産業における独占体制の形成」『研究年報経済学』72(2.3)(2012)

 

はじめに

  • 本稿の目的:1920s末の交流用真空管の開発から、戦時統制が本格化する1941年頃までを対象に、真空管産業の発展を分析する。
  • ただし、ラジオ受信管を中心に取り上げ、分析主題は産業組織(企業間競争など)に絞る。

 

  1. 1930年代前半の市場と企業間競争
    • 技術革新の展開
  • (1)エリミネーター:乾電池の交換や蓄電池の充電の手間を省き、維持費の低減を可能にする。技術的には、交流特有のハム(雑音)をキャンセルすることが課題だった。:
  • アルカリ土類金属の酸化物を塗布するもの;UX-226(RCA、1927年)→(東京電気、1928年末)。
  • 傍熱型;UY-227(RCA、1927年)→(東京電気、1929年)。※宮田製作所は東京電気より1年早く発売。
  • (2)多極管:
    • 遮蔽格子四極管;電極間の静電容量を小さくし、高周波増幅を安定的に行うことを可能にしたもの[1]。;UX-222(RCA、1927年) →(東京電気、1929年)、UX-224(RCA、1928年)→(東京電気、1930年)
    • 五極管:μの向上。;247(RCA、1931年)→(東京電気、1932年)
  • 247は、日本の家庭用電源に適した247Bという改良型を発売している(東京電気、1932年)。同じく、検波管の227も、227Bという日本独自企画の改良型を販売している(東京電気、1932年)

 

  • 1932年頃には、アメリカの基本形を日本の事情に合わせて改良した真空管が開発されるようになった。=基本形の改良製品を開発できるレベルになった[2]
  • 東京電気の製造技術:1929年にGEからシーレックス・マシンを導入、また高周波電気炉も設備し、227の生産を行なった。

⇔ただし、224のアノード製作に関して、東京電気のpress 加工技術が低く、梨地(なしじ)になってしまう。→特徴曲線が一致しない。東京電気の製造技術は、20s末でも高いとは言えない状況。

  • さらに、提携先とGEとRCAの関係が混乱し始めた。GEは製造権をRCAに移管したので、東京電気にとっては、RCAからの情報が重要になった。

⇔Standardizing Noticeという製造技術の指導書が1931年6月から32年5月まで送られてこなくなったり、1934年には東京電気の技術者への情報公開を渋るようになってきた。Cf 今岡賀雄の報告書(東芝社史編纂資料室所蔵)

=東京電気の求める情報が高度化したとも言える。

 

  • 企業間競争の展開
  • 1930年にフィリップス日本法人が設立。フィリップスも国産品と同じ程度まで値下げをする。

→東京電気も値下げによって競争を挑む。

 

  • 東京電気の特許戦略と独占的地位の確立
  • 東京電気が持つラングミュアー特許=1930年2月までだったものを5年の延長を申請・認可。
  • 1932年に日本真空管製造所に対して東京電気が勝訴。

=同社の特許権優位が決定的なものになる。

→セカンドメーカー12社は、1932年に日本真空管協会を設立し、東京電気と抵抗を続ける。

  • ただし、1932年以降、東京電気の真空管価格は大きく変動しなくなる。

→このころに、同社のプライス・リーダーシップが確立した。

 

  1. 1930年代後半の市場と企業間競争
    • 技術革新の展開と停滞
  • (1)多極管、複機能管[3]の出現。

(2)小型管:エーコン管(RCA、1934年)→(東京電気、1938年)。

(3)金属管:キャトキン管など(1933年、英国のCatkin)→(GE、1935年)→(東京電気、1938年) ※アメリカの新型ラジオの60%が採用。

  • 1930s前半までの交流用真空管、四極管、ペントードの時代は、アメリカからの遅れは1-2年であり、独自の改良生産の開発もできていた。

⇔1930s半から新型管の製品化は3-5年の遅れを見せるようになる。

ラジオ側からの需要がなくなり、市場の成長が限定的になった。(主に軍用に使用された[4]。)

 

  • 有力企業の参入
  • 1935年にラングミュア特許が失効→日本電気、川西、理研などが進出。

:これらの有力メーカーは、東京電気と資本・技術提携を成立させる。

 

  • 東京電気の対応
  • 東京電気側は、(1)セット・メーカへの投資、(2)真空管メーカーへの投資(ドン真空管、宮田製作所、東京真空管販売株式会社)、(3)潜在的な競争相手である真空管メーカーへの投資(富士電機沖電気)、によって対抗。
  • このように1935年以降、東京電気は株式所有を通じて、真空管市場の確保を図った[5]
  • 1935年に東京電気の無線部門は、東京電気無線株式会社として別会社化した。

GEの子会社であることから軍から歓迎されない傾向があり、軍需への依存が強い無線機部門を別会社化することで対応しようとした。真空管事業については、送信管部門が同社に移管され、受信管は東京電気に残された[6]

  • 中小メーカーの凋落
  • セカンドメーカーは、1936年に東京真空管工業組合(41年に日本真空管工業組合へと改称)を設立。
  • 1940年には中小メーカーが販売会社の設立に向かい東京真空管販売株式会社を設立、41年に生産部門をも統合して東京真空管株式会社となる。=戦時統制の進展。

☜すでに見た通り、これは1940年に東芝の傘下に入っている。

=セカンドメーカーの影響力はほぼなくなる。

 

おわりに

→ラングミュア特許の延長とその確認によって、中小零細企業も東京電気との間で協定を結ばざるを得なくなった。35年に失効したのちも、東京電気は出資を通じて関連企業の系列化を行なった。そして中小メーカーは41年に東芝の傘下に入ったことで、産業主体としての役割を終えた。

  • その反面、35年以降から有力企業が真空管産業に進出し始めた[7]。(日本電気理研、川西など)
  • 30s半以降は、技術の停滞も見られる。

1930s半から新型管の製品化は3-5年の遅れを見せるようになる。

UX-222(RCA、1927年) →(東京電気、1929年)、UX-224(RCA、1928年)→(東京電気、1930年)、247(RCA、1931年)→(東京電気、1932年)

エーコン管(RCA、1934年)→(東京電気、1938年)、

キャトキン管など(1933年、英国のCatkin)→(GE、1935年)→(東京電気、1938年) 

 

[1] 高周波を扱う場合、電極間が一種のコンデンサーになって電気振動が生じてしまうので、+の電荷を持つスクリーングリッドを間に挿入して、そのC(キャパシタンス)をキャンセルする。基本的には高周波増幅に適している。

[2] 日本の家庭用電源に合わせた改良であれば、それほど劇的な改良ではないと思われ、「日本独自」の規格を、どういう基準で判断するかは難しい問題である。

[3] 複機能というのは例えば双二極三極管のようなもので、2つの真空管を合体させたようなもの。

[4] これは二次文献に依拠した記述で、実際に軍の資料で確認しているわけではない。

[5] トラストの促進など30sの産業合理化運動≒経済統制≒準戦時体制への移行を彷彿とさせるが、実際にはこうした革新官僚らの企てとどの程度連動していたのだろうか?

[6] 軍器独立の観点からも重要。また、送信管生産のみを同社に移管したということは、送信管の方が軍需drivenである傾向が強かったことを示していると考えられる。

[7] ほかのセカンドメーカー(中小零細企業)と違った点は、これらのメーカーはテレフンケンやWEなどとの提携があり、東京電気とある程度「対等に」交渉を進め、技術・資本提携を結べたという理解で良いか。

平本、2007

平本厚「日本における真空管産業の形成」『研究年報経済学』68(2) (2007)

 

はじめに

  • 本稿の目的:日本においてどのように真空管技術が導入され、産業が形成されていったのかを、東京電気以外のメーカーやそれらの競争関係にも注目しながら明らかにすること。

 

  • 日本における真空管の開発
  • 日本に最初に真空管がもたらされた時点=1910年(鳥潟右一)

:ソフトバルブ(オ―ディオン)だったので、動作が不安で、それほど重視されなかった。

  • 海外では、その後、リーベン管(酸化皮膜の電極をもつ)を経て、ラングミュアのプライオトロンの発明によって、真空管の技術革新が進む。
  • 逓信省:1916年の秋にハードバルブの受信管の製作に成功し、1917年には送信管の製作に成功。同時無線電話機の開発も成功。
  • 海軍:1914年に林房吉を招聘し、リーベン管を試作するも失敗。デフォレストを雇う動きもあったが、実現していない。(電気部に設置により、木村駿吉が去り、「国産第一主義」から「輸入主義」に変わった[1]と言われる。
  • 西崎の米国からの報告書や、木下季吉の援助をたよりにハードバルブの製作を試みるが難航。とはいえ、造兵廠には真空管製造のための専門工場が建設された。
  • 1918年には無線同時電話機の開発にも成功。

 

  • 民間企業における研究開発(1):東京電気
  • 東京電気:1916年8月に開始。1917年にオーディオンを陸軍に納入。電気試験所は東京電気に真空管製作を以来。海軍もそう。☜松田と宗をマルコーニ社へ派遣。艦政本部は東京電気と連絡をとるよう訓令を出している。
  • このように東京電気は、逓信省・陸海軍から真空管国産化の主体として育成されることになった[2]
  • 東京電気は1918年にラングミュア特許の実施権が付与されたが、当初の真空管製造は自力であった[3]

 

  • 民間企業における研究開発(2):その他のメーカー

 

  • 真空管研究開発の開始と産業の形成
  • 逓信省と海軍が真空管の研究開発を開始・主導。
  • 両者は、大量に必要になるにつれ、真空管製作を東京電気に依頼するようになった。

 

当時の市場では、消費者がその品質(ハードバルブなのかどうかなど)を判断することができず、悪質な供給者が横行することができた。

1924年の「型式証明」では、3社しか合格していない。(東京電気、日本無線東京無線電気)☜「悪質」企業が横行していたことの証左。

  • それでも中小企業は次第に製造能力を高めていく。(特に拡散ポンプと、高周波電気炉の使用が鍵だった。)

:1928年の「優良受信機器認定制度」では、多くの中小企業が合格している。

 

  • 東京電気の受信管生産
  • UV-201、199=1930年頃[4]までのデファクトスタンダート
  • 東京電気は、意外なことに、日本真空管製作所(1924)などに遅れて販売していた(1925,2)。

∵製造能力がそこまでなく、手作業だった。(1925.3時点)

  • しかし、1925年8月に電球製造用の「シーリング・マシン」、10月に「ステムマシン」、3月に「排気マシン」を導入。1926年3月にはGE社の「高周波電気炉」(ここからおそらく真空管用)、10月に「フィラメント・クリーニングマシン」、「グリッド・ワインディング・マシン」を購入した。(電球用→真空管用)
  • さらに、作業工程も、グループ・システム、出来高制を導入し、生産性が3倍に増加[5]

 

  • 東京電気の特許戦略
  • 東京電気はラングミュア特許を当初は発動しなかった。

逓信省・軍の保護を受けている状態で発動することにメリットがなかった[6]

  • 1924年にラジオトロンの排他的権利を東京電気が持つことが確認され、12月から1925年1月にかけて、その輸入商社であった大倉商事、高田商会、国際無線電話を特許侵害で警告を出した。同年、日本無線東京無線、安中、日本真空管製作所などにも警告を出す。patently contedtedの状態に入る。
  • 日本無線とは、マイスナー特許と交換が成立。日本真空管製作所はそれでも製造をやめなかったので、審判請求を出す。(1925年3月にはラングミュアー特許自体をGEから譲り受けていた[7]。)
  • 東京電気は、ラングミュアー特許によって、真空管生産から撤退(東京無線、安中、沖)、断念(日本電気)させ、生産を制限(日本無線)させることに成功した。

東京電気/中小零細メーカーという二極構造が成立。

 

  • 当時(1927)の市場では、輸入品は約2割しか占めていない。

∵(1)東京電気がGEと提携しており、ラジオトロンの輸入を規制できたから、

(2)国産品の価格が低下したから。

→1927年ことには需要が停滞し、価格を下げるインセンティブが働いた[8]

→1928年以降には日本の国内価格の方がアメリカの価格よりも低くなった。

 

おわりに

  • 東京電気のラングミュア特許によって、他の有力メーカー(沖電気日本無線、安中、日本電気)が撤退、参入させないことに成功。
  • その結果、(30s初頭頃までの)真空管市場は、トップメーカー=東京電気/中小零細企業という二極構造になった。

 

 

[1] これは重要な論点なので、拙稿で掘り下げる予定である。この場合の「輸入主義」というのは、海外から製品を積極的に輸入する姿勢を指すというよりも、輸入した製品をそのまま兵器として採用するということを意味していると考えられる。(ex たしかマルコーニ社の製品の場合、「マ式」みたいな言い方をしていたと記憶している。)

[2] これは「育成」と言えるのかどうかは一つの論点である。

[3] 実施権とは?それは販売と製造の両方を意味しているのか?

このとき自力でハードバルブの製作をやっていたのは、製造機械がまだ入っていなかったということなのだろうか?ハードバルブの製作権はまだなかったのか?

[4] 戦時期までずっとデファクトスタンダートであった。(それが、廃止管をリストアップし(≒型番の整理統合)、実行した一つの理由でもあった。)

[5] このあたりは、明らかにテイラー主義の運動と密接に関わっていると考えるしかない。実証研究が待たれるが、GE側も調べなければならないので、大変な作業になるかもしれない。また、製造機械の仕組みと内容もGE側の資料から明らかにしなければならない。その作業も必要だろう。

[6] 「保護」の中身があいまいだが、これはおそらく、「需要超過の状態が続いていたにもかかわらず東京電気の真空管製造能力がそれに追いついていない状況で発動することはナンセンスだった」、という西村の指摘が妥当であると考える。ただ、製造機械の導入が26年なので、25年の警告はそれでは説明できないかもしれない。

[7] これは製造権?それとも販売権?

[8] 当時のサイモトロンの広告を見ると、たしかに「値下げ」という文字が踊っている。ただ同時に、「製造機械を導入し、大量生産できるようになった」ということも値下げの文字の隣に書いてあることが多いが、値下げは純粋に需要低下ということで説明できるのだろうか?

吉田、1990年

吉田秀明「通信機器企業の無線兵器部門進出―日本電気を中心に

(下谷政弘編『戦時経済と日本企業』(昭和堂、1990年)、3章。

 

 

課題

  • 1930sと太平洋戦争期にもともと有線電話メーカーであった日本電気が急速に無線部門に進出する。
  • 本章の目的:この進出を可能にした要因はなんだったのか?

→特に真空管市場における東芝ガリバー企業との「技術交流」に注目する。

 

 

  1. 無線機器市場の急速な発展

1-a 戦前の通信機器市場

  • 30sの通信機市場の拡大を担っていたのは、無線機。

日中戦争期には通信機全体の6割、42年には7割を占める。

  • 有線電話の大半は官需(逓信省)。無線通信の大半は軍需(ラジオは41年をピークに減少に転じる)。

=軍部は無線兵器の増強を、民間企業の管理・指導を通じてしか達成する道がなかった[1]

1-b 兵器としての無線機

  • 通信技術=軍の神経系。
  • 電波兵器:レーダーなど。
  • 通信・電波兵器への軍需の増大が、通信メーカーに対する市場を創出し、彼らをエレクトロニクスメーカーに変身させる契機となった[2]

 

  1. 日本電気における無線機生産体制の構築

2-a 無線部門進出を可能にした要因

  • 日本電気はWEとの提携を通じて、20s半までは電話機・交換機などの有線電話市場で圧倒的地位を保っていた。
  • ではなぜ、有線市場におけるドミナントであった日本電気は、無線部門に進出したのだろうか?:
  • 逓信省による発注の分散;1920s後半からの「国産品愛用運動[3]」の影響によち、逓信省による機器の発注は、外資系=日本電気への集中から他社へ分散するようになった。

→無線機器市場への進出を決断。

  • 1930sにおける軍需と結びついた無線市場の創出と、その市場動向を予測した経営層のセンス。
  • 30s以前から蓄積されていた同社の効率的生産システムと生産技術。
  • 資金力・信用力。

2-b 設備投資

 

2-c 企業グループの形成

  • 1930s末には有線・無線通信機分野に特化した企業グループを形成していく。

:大きくは、(1)通信機の原材料・部品会社(ex 岩城硝子、東北金属工業)、(2)製造機械メーカー(ex 日本航空電機、北浦製作所)に分かれる。規模はそれほど大きくなく、不足が見込まれる資材確保の対策といった意味合いが強い。

  • 有線分野でのライバル=沖電気も買収しようと試みたが失敗。

→無線分野への進出に拍車がかかった。

 

  1. 戦時における日本電気の無線兵器生産

3-a 電波兵器の開発

  • 日本電気における電波兵器の開発:小林正次による航空機探知機、海軍、NHKと共同で開発したパルス式レーダーなど。

 

3-b 真空管生産と東芝の壁

  • 真空管市場では、GEのpatentを有する東京電気(東芝)が圧倒的なシェアを持っていた。
  • 沖電気、安中電機などは真空管の製造を中止し、1935年には沖電気と東京電気との間で売買契約・特許実施許諾契約が締結。
  • 日本無線真空管特許実施に関して、東京電気と資本・技術提携を結んだ。

→こうした状況は、太平洋戦争の勃発によって変化した。

:①「工業所有権戦時法」(1917)の発動により敵性特許による国家の取り消しに法的根拠が与えられ、②「特許発明等実施令」によって適性以外の特許権にも実施権が内閣総理大臣の権限で設定できるようになる。

⇔①戦時法によって取り消されたものが44%(1382件)で、これに対して1829件の専用免許が申請されたが、認可されたのは244件に過ぎなかった[4]。②は不明。

☜既存の特許権を侵害することは容易ではない。国家・軍と企業の相剋が発生する。

  • ここで提起されたのが「技術交流」

真空管部門の原材料・製造技術では東芝が圧倒的。=真空管の生産額全体の46.4%。日本電気は22.1%、日本無線は17.3%、川西機械は9.9%と続く。

→技術「交流」〔双方向のインタラクション〕ではなく、東芝から他企業への一方的な技術流出であると見た方が適切。=「技術直流」

 

3-c 「技術交流」が持つ意味

  • 「技術交(直)流」:先発者のもっていた特許や企業秘密を後発者に分配し、後者を引き上げて前者と同じラインに立たせる。軍需省、技術院が主導。

Ex :部品材料の混合比率、取り付け位置、エイジングの際の電圧や負荷時間、熱処理の温度、硝子の厚みなど。

東芝は査察へ非協力的な態度をとったことや、それに対して査察側が警告していたことを示唆する資料がある。

  • 大河内正敏:金銭的報酬の重要性も指摘。
  • 日本電気側の反応:大型真空管の製造のために、RCAの製造機械の図面を軍需省経由で入手し、受信管の本格的生産に入ることができた。「東芝さんには、わるいことをしたという、いささかうしろめらさが残」った。

 

議論

・戦時期における東芝からセカンドメーカーへの真空管の「技術交流」の一側面を描いており興味深い論文である。

・本稿では強調されていないが、東芝→セカンドメーカーの手前に、GE=RCAの存在があることには注目した方が良いと思った。実際、つまるところ、東芝の技術というのはGE=RCAの技術なのであって、それが直後に敵国となるアメリカから入ってきていたという、複雑で皮肉な現象が起きてきたのである。

 

[1] 「達成する道がなかった」というとはネガティブに聞こえるが、実際のところ通信兵器生産において民間の技術力を活用することは軍部の意図するところであり、ポジティブに捉えるべきだと思われる。

[2] このステートメントが正しいかどうかは、戦後の検討を行わなければならない。

[3] 重要なテーマだが、先行研究はほぼ皆無であって、今後の研究が待たれる。

[4] 企業サイドの反発もあるだろうが、やはりユニバーサルな法規範、法倫理を主張する法務省サイドの抵抗も大きいと想像する。

 

 

 

下谷、1990。

下谷政弘「1930年代の軍需と重化学工業」(下谷政弘編『戦時経済と日本企業』(昭和堂、1990年)、序章。

 

課題

  • 1930s=準戦時期(~1936)と戦時期(1937~)に分かれる。

1930s前半は、恐慌脱出のための政策と絡み合いつつ、経済統制のための準備が進められた時期でもある。軍需も急増し始めた。

  • 本章の課題:この推移の中で、当時の企業はどのような状況に置かれたのか?

(1)30sの産業構造において、「重化学工業化」と「軍需」増大とはどのように関わり合っていたのか?

(2) 「軍需」の増大に企業側は一体どのように対応したのか、企業はどう変化したのか?

 

  1. 軍需と重化学工業

1-a 軍需品

  • 軍需品:軍部によって需要されるあらゆる兵器、その他の装備品、糧秣。

←近代工業を基盤とする「総力戦」としての内容をもつもの。

明治維新以来の「官営工業を軸に勧められてきた軍需生産能力の育成方針」→WW1の経験を経て、「民間重化学工業の育成の必要性が認識されたことによって軌道修正」され、「潜在的生産能力の育成」が重視されるようになる。

 

  • 軍需工業動員法(1918)から見える軍需品の特徴;

(1)「軍用に供し得へき」もの=平時においては民需品、戦時においては初めて「軍需品」となりうるもの。

(2)必ずしも全てが重化学工業製品ではない。(衣服、糧秣なども含まれる。)

(3)〔軍工廠内ではなく〕民間企業の「動員」(管理・使用・収用)によって行われる。(38年以降は、「軍管理工場」として直接管理されるようになる。)

 

  • エスチョン(くり返し):

(1)こうした軍需品の増大は、産業構造をどう変えていったのか?

=軍需の増大と重化学工業の急成長との関係を問い直す。

(2)企業側はどのような対応を迫られたのか?

1-b 直接軍需と間接軍需

  • 軍需工業を担った私企業として、新興コンツェルンが問題にされることが多い。

⇔逆に新興コンツェルンは、30s前半において「民需」を中心に急成長したとの議論もある。

←「軍需工業」という概念があいまいであるがゆえに、議論の混乱が見られる。

  • 2つの軍需:
    • 直接軍需;軍部に直接納入される製品
    • 間接軍需;製品生産をめぐる私企業間の巡回生産される製品

                                        

 

 

→間接軍需の実態把握は困難であるが、それがゆえに、直接軍需に限定して30sの重化学工業の性格を論じて良いということにはならない。

→間接軍需も視野にいれて、民間企業との具体的関係を見なければならない。

 

1-c 重化学工業

(1)「重化学工業」

  • 37年の前後に、急速に「重化学工業の圧倒的優位の構造」へと逆転する。
  • 重化学工業:金属・機械・化学工業に属する諸事業。資本集約的でもある。
  • ただし、「重化学工業」という言葉が使われるようになるのは、WW2後であって、30sにおいてはその言葉はまだ登場しない。(重工業、化学工業という言い方)
  • 「重化学工業」という言葉の含意:国産化による技術的自立が急がれていた産業

→高品質の高級・特殊な重化学工業製品の国産化が、軍需において最も強く要求され続けてきたことだった。

 

(2) 新興コンツェルンと財閥

  • 新興コンツェルンの事業構造において重化学工業が占める割合は高いが、旧財閥との違いはそこまで自明ではない。

∵新興コンツェルンは、本業を垂直的に補完する子会社を傘下に擁した有機的事業構造であるが、親会社が重化学工業企業であれば子会社もそうならざるを得ず、結果的に重化学工業の比率が高くなることは自明である。

→この対比(=新/旧財閥)は相対化される必要がある。

 

  1. 民間軍需工場と軍管理
  • 軍需工場動員法(1938)に基づく「工場事業管理令」をもって、軍工廠と民間工場との連携が本格的に開始される。

→「管理工場」となったものには、現役の陸海軍人が管理官として駐在する。

 

2-a 軍管理工場

  • 陸軍の場合、1940年7月の「第十次管理」(漸進的に増えるしくみだった)までの時点で、359の民間工場を管理していた。
  • 海軍は41年5月時点までで、309工場を管理工場としており、うち198が陸軍との共同管理工場だった。=約2/3。

 

2-b 利用工場と監督工場

  • 管理工場以外にも、軍部と関係した民間工場が以下の2種存在した[1]
  • 利用工場:軍需品生産を行う民間工場のうち、法律や契約によって拘束を受けない工場。監督官から指導監督を受けることがあり得ても、これにはなんら法的根拠が存在するわけではない。
  • 監督工場:軍部が直接指揮監督の影響力を行使できる。陸軍軍需監督官令が根拠であり、総動員法に基づくものではない。したがって、法律上の根拠はなく、罰則などの規定もない。
  • とはいえ、軍部の関係において、これら3つの間に実質的差異が大きくあったと考えることはできない。(1)と(2)も、「高度国防経済体制」の確立に対して中枢的な地位を占めていた。監督工場の場合であっても、「上からの強制」であることは変わらなかった。
  • 数が増えるにつれて、秘密保護のための措置が取られるようになった。

 

[1] よく軍の「指定工場」という言葉が当時の雑誌などの広告に登場するのを目にするが、これは「利用工場」と同じ、つまり法的な根拠はない関係だったのだろうか?

 

 

 

 

小野塚、2003年

 

 

知二「序章 武器移転の経済史」(名倉文二他『日英兵器産業とジーメンス事件』(日本経済評論社、2003年)

 

  1. 本書の主題

本書の主題:英国・日本の兵器産業と日本海軍との関係を、経済史・経営史の視点から考える。

 

  1. 日陰の軍事と兵器
  • 兵器の生産・取引や武器移転に関する歴史研究を制約してきた原因:
  • 史料の制約;軍資料は機密扱い。産業には守秘義務。敗戦時に大量に破棄。
  • 認識や関心の制約:現在の日本で軍事・兵器を強い関心を持って調べているのは、一部の軍事関係者か軍事愛好家〔ミリオタ〕に限られているといっても大過ない。軍事や兵器をそれ自体の特殊に閉じた世界のものごとと感じ、見ぬふりをする認識のあり方がある。

 

  1. 流布してきた二つの議論
  • 上記の要因もあって、以下の二つの問題が十分に検討されないままになっている。

(1)「死の商人論」:兵器生産・取引に関わる企業は、国家間の対立を無理に煽り、戦争の脅威を捏造してまで軍拡を導き、兵器を売り込もうとする。

→こうした「死の商人」の実態は(歴史研究としては)ほとんど明らかにされていない。=兵器製造業の否定的把握。

(2)スピンオフ論:先端技術は軍用から民生用へと波及する。=兵器産業の肯定的把握(=社会的有用性を主張)

→軍用技術がいかに民生用に影響しているかという点[1]が問題であって、この点は十分に検証されていない。

  • 「兵器もの」の書籍には、多くの兵器に関する叙述があるにもかかわらず、これらの言説の当否を検証するのに必要な材料は乏しい。

 

  1. 日英間武器移転と「軍器独立」
  • 武器移転:国際政治学の用語。モノとしての兵器(weapon)だけではなく、武力(arms)や軍備(armament)の移転も含む。ハードのみならず、兵器の運用・修理技能の移転なども含まれる。
  • 武器移転に注目して、日英兵器産業と日本海軍に注目すると、2つの特徴が見える。
  • 武器移転と日本資本主義の確立との関係。

→創設期から、艦艇・兵器を国産化する=軍器独立の努力を重ねており、このプロセスと日本における近代産業(とくに重化学工業)の確立の過程が重なっている。

→「軍事的顛倒性」が生じる。=軍事関連工業が政府との密接な結びつきの下に突出した発展を示し、一般の重工業が遅れて展開するという「顛倒性」がみられた、という議論。このことが日本の資本主義・近代産業の確立を解明する鍵であると考えられた。

  • この軍事的顛倒性は、スピンオフ論の例証となるか??

Ex 艦艇(=最終製品)を設計・製造する能力は早くから英仏の影響下に確立し、機関、装甲板、砲、発射薬(=それを構成する要素)や特殊鋼(それに用いられる素材)、工作機械・工具の製造能力は遅れて進むという特徴が見られる。(顛倒性)

→この過程に、英国企業→日本の兵器産業→民間諸企業へと波及していった技術を見出すことも難しくないように思える。(スピン・オフ)

  • ⇔実際には何がどこまでスピンオフしているのか?

本書では、スピンオフによって、顛倒性が克服された、すなわち一般の重工業が遅れてであれ十分に展開したわけではない、という立場をとる。

Ex 軍用機の例;1930s末までには先進国と同レベルの設計能力を持っていた。しかし、日本だけは液冷直列エンジンの量産に成功せず、単座用無線電話機が満足に使えない、といった特殊な問題を抱えた。

→ 長いクランク軸を製造する鍛造技術の低さや、材料の品質。真空管などの電子部品の品質の悪さ。

→兵器そのものの運用・修理・製造能力の移転には成功したが、それらの裾野にある広範な基礎的・一般的な技術を保証していたわけではなかった。

=やはり軍事的顛倒性が、基礎的・一般的な技術基盤の形成を阻害したといえる[2]

 

  1. イギリス側の要因
  • 英国政府の役割は小さい。送り手の第一のアクターは、民間造船企業・兵器製造会社。

→これらの企業が、イギリスの兵器産業においていかなる一にあり、相互にどのような関係を結んでいたのか。これらの企業にとって、日本向けの供給や投資がいかなる意味を持っていたのかを問うことが必要。

 

  1. ヴィッカーズ・金剛事件

 

[1] わかりやすく言えば、「機会費用」的な問題であると思われる。つまり、軍事研究にリソースがさかれるということは、その分、本来発展すべき民生研究を犠牲にしている可能性があるということ。

[2] この議論は問題があると思われる。著者の議論を整理すると、「軍事関連工業」を航空技術とし、「一般の重工業」をエンジンや通信技術とし、前者の選択的な発展が、後者の発展を阻害した、従って、前者(軍事関連技術)がスピンオフしたことは、後者(基礎的・一般的な技術)の技術を保証したわけではなかった、というものである。

 以上を踏まえた上で、最大の問題は、「軍事関連工業」=航空技術/「一般の重工業」=エンジン・通信技術とする区分が恣意的である点である。通信兵器は、軍事関連工業ではないのだろうか? → むしろ、次のように言い換えた方が適切だと思われる。つまり、技術をproduct、module、parts、materialと階層的に見たときに、productなどの上位の発展を選択的に推進したために、下位の基盤層がおろそかにされたと。だが、そもそも技術の発展は、下位から上位に向かって整然と発展していくものなのだろうか?それが健全な姿と一般的に言えるのだろうか?

 第二の問題は、航空技術と通信技術は技術体系としてはおそらく別であると考えた方が妥当であるという点である。早い話、三菱重工や川西重工と、日本電気や東京電気は、企業主体としても別個であり、技術は独立に閉じており、完全に別のことをやっていたのではないだろうか。なので、仮に航空技術がスピンオフしたところで、他の電気メーカーの技術の全体的な底上げにつながるというシナリオを思い描くことが難しい。

(ただし、大企業と部品メーカーとの間でのネットワークがあり、ある部品メーカーが大企業から発注される「ハブ」的な存在となっており、そこが基盤技術の水準の鍵になっていたということがあれば別であるが。)